アイヌの歴史
アイヌの歴史をわかりやすく 年表でたどるアイヌ民族の歩み
アイヌ民族は、北海道を中心に暮らしてきた先住民族です。アイヌ語は、日本語とは別の言語です。13世紀ごろから続くアイヌ文化の歴史を、公的な資料をもとに、年表と短い説明でまとめました。
アイヌ民族とは 北海道を中心に暮らしてきた先住民族です
アイヌ民族は、日本列島の北部、とりわけ北海道の先住民族です。2019年にできた法律(アイヌ施策推進法)が、このように定めました。
アイヌ語は、日本語の方言ではなく、別の言語です。アイヌ文化は独自の文字を作らず、歴史や物語を口で伝えてきました。
北海道では、13世紀ごろにアイヌ文化の時代になりました。その前の擦文文化の人々は、アイヌ民族の祖先と考えられています。人が入れ替わったのではありません。
明治時代になると、政府の同化政策が進みました。土地は国のものになり、川でのサケ漁や毒矢での狩りが禁じられました。学校ではアイヌ語が教えられず、多くの家庭が、アイヌ語を子どもに伝えることをあきらめざるを得なくなりました。
1970年代ごろから、歌、踊り、刺しゅう、木彫り、儀礼、アイヌ語を学び伝える活動が各地に広がりました。この歩みは、いまも続いています。
出典: ウポポイ「アイヌの歴史・文化の基礎知識」、アイヌ民族文化財団「アイヌ民族:歴史と現在」中学生用、内閣官房アイヌ総合政策室
アイヌ民族についてよく聞かれる5つの問い
- 「アイヌ」とはどういう意味ですか
- 「アイヌ」は、アイヌ語で「人間」を意味する言葉です。カムイ(神と訳されることが多い言葉)に対する人間という意味のほか、民族の名としても使います。
- アイヌの人々は、いま何人いますか
- 北海道の「アイヌ生活実態調査」(2023年10月1日時点)では、道内に5,322世帯、11,450人です。市町村が把握できた人の数で、全員の数ではありません。
- アイヌ語は日本語の方言ですか
- 方言ではなく、日本語とは別の言語です。ほかのどの言語とも、系統の関係は証明されていません。地域ごとの違いがあり、「標準語」はありません。
- アイヌの人々はどこに住んでいましたか
- 19世紀ごろまで、北海道、樺太(サハリン)、千島列島、東北地方の北部に住んでいました。いまは北海道のほか、全国に暮らしています。
- いまもアイヌ文化は続いていますか
- 続いています。1970年代から、歌や踊り、刺しゅう、木彫り、儀礼、アイヌ語を学び伝える活動が各地に広がり、新しい作品も生まれています。
出典: 北海道アイヌ政策課「北海道アイヌ生活実態調査」、ウポポイ「アイヌの歴史・文化の基礎知識」、アイヌ民族文化財団「アイヌ民族:歴史と現在」中学生用、帯広開発建設部「時をこえて十勝の川を旅しよう」第3章
アイヌの歴史の年表 1 江戸時代まで
- 7世紀ごろから擦文文化の時代。サケやマスの漁、シカの狩り、アワやキビの畑作をした。擦文文化の人々は、アイヌ民族の祖先と考えられている
- 13世紀ごろ北海道がアイヌ文化の時代になる。鉄の鍋や漆器が交易で入り、土器を作らなくなる
- 1264年から元の軍が、サハリンでアイヌの人々と戦う。約40年のあいだに何度か戦った
- 1356年『諏訪大明神絵詞』が書かれる。日本の資料として、初めてアイヌの人々を具体的に書いた
- 1457年コシャマインの戦い。渡島半島にあった和人の館12のうち、10が落ちた
- 1550年か1551年蛎崎季広がアイヌの人々と講和する。約100年続いた戦いが終わる
- 1604年徳川家康が松前氏に、アイヌの人々との交易の独占を認める。松前藩ができる
- 1669年シャクシャインの戦い。各地のアイヌの人々が立ち上がった。戦いのあと、松前藩に従う誓いを立てさせられた
- 18世紀場所請負制が広がる。商人が交易を引き受け、やがてアイヌの人々を漁場で働かせるようになった
- 1789年クナシリ・メナシの戦い。国後島とその対岸のアイヌの人々が和人71人を殺害し、松前藩は37人を処刑した
- 1799年・1807年幕府が東蝦夷地を、続いて松前と西蝦夷地を、直接治める土地にする(1821年に松前藩に戻す)
- 1855年日露和親条約が結ばれる。幕府が再び蝦夷地を直接治める
出典: アイヌ民族文化財団「アイヌ民族:歴史と現在」中学生用の年表と本文、帯広開発建設部「時をこえて十勝の川を旅しよう 第3章」
アイヌの歴史の年表 2 明治から戦前
- 1869年(明治2年)政府が開拓使を置き、蝦夷地を「北海道」と改める。場所請負制を廃止する
- 1871年(明治4年)戸籍法ができる。開拓使が、葬儀のときに家を焼く習慣、女性の入れ墨、男性の耳飾りを禁じ、農耕と日本語を学ぶよう命じる
- 1872年(明治5年)「北海道土地売貸規則」と「地所規則」ができる。狩りや漁に使ってきた山林や川が官有地になり、和人に払い下げられていく
- 1875年(明治8年)樺太・千島交換条約。樺太や千島のアイヌの人々が、北海道や色丹島へ強制的に移され、多くの人が亡くなった
- 1877年(明治10年)「北海道地券発行条例」ができる。アイヌの人々が住む土地も官有地に入れられる
- 1883年(明治16年)札幌県が、十勝川の上流でのサケ漁を禁じる
- 1889年(明治22年)北海道庁が、道内のシカ猟を全面的に禁じる。食料の分として認められていた猟も禁止になる
- 1899年(明治32年)「北海道旧土人保護法」ができる。農業をする人に土地を与えることと、日本語で教えるアイヌの学校を置くことが中身だった
- 1901年(明治34年)「旧土人児童教育規程」ができる。和人の義務教育が6年になったあとも、アイヌの児童は4年とされた
- 1923年(大正12年)知里幸恵『アイヌ神謡集』が出版される
- 1931年(昭和6年)「北海道アイヌ協会」ができる。札幌で、第1回の全道アイヌ青年大会が開かれる
- 1937年(昭和12年)北海道旧土人保護法が大きく改正される。アイヌの学校が廃止され、共学になる。いじめや差別は残った
出典: アイヌ民族文化財団「アイヌ民族:歴史と現在」中学生用の年表と本文、ウポポイ「アイヌの歴史・文化の基礎知識」、帯広開発建設部「時をこえて十勝の川を旅しよう 第3章」
アイヌの歴史の年表 3 戦後からいま
- 1946年(昭和21年)2月、社団法人北海道アイヌ協会ができる。戦前の協会とは別の仕組みの団体だった
- 1948年(昭和23年)保護法で与えられた土地も、農地改革の対象になる。多くの土地が、再びアイヌの人々の手を離れた
- 1984年(昭和59年)アイヌ古式舞踊が、国の重要無形民俗文化財になる。北海道ウタリ協会の総会が「アイヌ民族に関する法律(案)」を決議する
- 1987年(昭和62年)国連の先住民作業部会に、アイヌ民族の代表が初めて参加する
- 1994年(平成6年)萱野茂さんが参議院議員になる。アイヌ民族で初めての国会議員だった
- 1997年(平成9年)二風谷ダム裁判の判決が、アイヌ民族を先住民族と認める。「アイヌ文化振興法」ができ、北海道旧土人保護法が廃止される
- 2007年(平成19年)9月13日、国連総会が「先住民族の権利に関する国際連合宣言」を採択する。日本も賛成した
- 2008年(平成20年)6月6日、衆議院と参議院が「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」を全会一致で採択する
- 2009年(平成21年)ユネスコが、アイヌ語を「消滅の危機にある言語」とする。アイヌ古式舞踊が、ユネスコの無形文化遺産の一覧に載る
- 2019年「アイヌ施策推進法」ができる。アイヌ民族を先住民族と初めて定め、差別の禁止を書いた
- 2020年(令和2年)7月12日、ウポポイ(民族共生象徴空間)が白老町に開業する
- 2026年(令和8年)10月1日、幕別町アイヌ文化交流センター「チロット」が開館する
出典: アイヌ民族文化財団「アイヌ民族:歴史と現在」中学生用、内閣官房アイヌ総合政策室、文化庁 文化遺産オンライン「アイヌ古式舞踊」、幕別町のお知らせ

アイヌの人々は、狩りと漁の民であり、交易の民でもありました
アイヌ文化は、交易で手に入れた品を、暮らしの大事な部分に取り入れています。ウポポイは、アイヌの人々を「狩猟・漁撈の民であると同時に交易の民でもあった」と説明しています。
儀礼に使うトゥキ(杯)は、本州で作られた漆器です。マキリ(小刀)の刃は、本州や大陸の鉄です。首飾りのガラス玉は、本州より南や中国から来ました。アイヌの人々は、その代わりに、コンブ、干したサケ、クロテンやラッコの毛皮などを出しました。
交易の相手は、和人だけではありません。アイヌの人々は、アムール川の下流まで行き、清の役人の制服だった絹の衣を手に入れました。この衣は松前に入り、「蝦夷錦」と呼ばれました。
13世紀の後半から15世紀の前半には、津軽の十三湊で交易が盛んになりました。北からの交易品は、ラッコの毛皮、ワシやタカの羽、コンブ、干したサケでした。
写真は、チロットに展示されている漆塗りの杯と、彫りのある木のへら(イクパスイ)です。
出典: ウポポイ「アイヌの歴史・文化の基礎知識」、アイヌ民族文化財団「アイヌ民族:歴史と現在」中学生用
コシャマイン、シャクシャイン、クナシリ・メナシの戦いと場所請負制
アイヌの人々と和人のあいだには、1457年のコシャマインの戦い、1669年のシャクシャインの戦い、1789年のクナシリ・メナシの戦いがありました。
1457年のコシャマインの戦いは、いまの函館の近くで起きた事件がきっかけです。マキリ(小刀)をめぐる言い争いから、和人の鍛冶屋がアイヌの少年を殺しました。渡島半島にあった和人の館12のうち、10が落ちました。コシャマインは、武田信広に討たれました。
1604年、徳川家康は松前氏に、アイヌの人々との交易の独占を認めました。松前藩は家臣に、決まった地域で交易をする権利を与えました。アイヌの人々は、津軽や南部へ出向いて自由に交易をすることができなくなりました。
1669年のシャクシャインの戦いは、交換の割合が不利にされたことなどへの不満から起きました。サケと交換できる米の量は、およそ3分の1に下げられていました。シベチャリ(いまの静内)のシャクシャインが呼びかけ、各地のアイヌの人々が立ち上がりました。シャクシャインは、和睦の酒宴でだまし討ちにされました。戦いのあと、アイヌの人々は刀を取り上げられ、松前藩に従う誓いを立てさせられました。
18世紀には、場所請負制が広がりました。場所請負制は、商人が松前藩や家臣にお金を納めて、交易を引き受ける仕組みです。商人は、やがてアイヌの人々を漁場で働かせるようになりました。狩りや漁、交易の暮らしを続けられない地域が出てきました。
1789年のクナシリ・メナシの戦いは、商人のひどい扱いに対して起きました。国後島とその対岸のアイヌの人々が、和人71人を殺害しました。長老たちの説得で戦いは止まりましたが、松前藩は37人を処刑しました。財団の副読本は、この戦いを「和人に対する武力による最後の戦い」と書いています。
19世紀の前半には、人口が大きく減った地域があります。副読本が引く表では、1804年から1854年のあいだに、根室で1,370人から581人に、千島で1,765人から602人に減りました。和人との接触で、天然痘などが流行しました。
出典: アイヌ民族文化財団「アイヌ民族:歴史と現在」中学生用・小学生用、帯広開発建設部「シャクシャインの戦い」。人口の表は、副読本が北海道庁『北海道旧土人』(1911年)から引いたものです。
明治の同化政策と北海道旧土人保護法で、何が起きたか
明治の同化政策で、アイヌの人々は、土地、漁と狩り、風習、言葉を伝える場を失いました。ウポポイは、政策の中身を4つにまとめています。
1つ目は、風習の禁止です。女性の入れ墨、男性の耳飾り、家族が亡くなったときに家を焼く習慣が禁じられました。
2つ目は、土地です。すべての土地が国のものになりました。アイヌの人々が使える土地は限られ、薪を自由にとることも難しくなりました。
3つ目は、漁と狩りです。川でサケやマスをとること、毒矢でシカなどをとることが禁じられました。アイヌの人々は、主な食料を得にくくなりました。
4つ目は、言葉です。学校ではアイヌ語が教えられず、役所や店でも日本語しか通じませんでした。多くの家庭が、アイヌ語を伝えることをあきらめざるを得なくなりました。アイヌ語そのものが、法律で禁じられたことはありません。
1871年の戸籍法で、アイヌの人々は日本国民に組み込まれました。そのとき「旧土人」という呼び名が使われ、差別を伴いました。
1899年の北海道旧土人保護法は、2つのことを決めました。農業をする人に1戸あたり1万5千坪以内の土地を与えることと、日本語で教えるアイヌの学校を置くことです。与えられた土地は、和人に比べて狭く、農業に向かない所も多くありました。この法律は、1997年に廃止されました。
差別のために、アイヌであることを隠す道を選んだ人が多くいました。ウポポイは、いまも自分がアイヌであると言えない人が大勢いると説明しています。
出典: ウポポイ「アイヌの歴史・文化の基礎知識」、アイヌ民族文化財団「アイヌ民族:歴史と現在」中学生用・小学生用
権利を取り戻す歩み 1946年の協会から2019年の法律まで
アイヌ民族は、2019年の「アイヌ施策推進法」で、法律として初めて先住民族と定められました。そこまでの歩みは、1946年の北海道アイヌ協会から始まります。
1946年2月、社団法人北海道アイヌ協会ができました。この協会は、1961年に北海道ウタリ協会と名を変え、2009年に北海道アイヌ協会に戻りました。
1984年、北海道ウタリ協会の総会は「アイヌ民族に関する法律(案)」を決議しました。1987年には、国連の先住民作業部会に、アイヌ民族の代表が初めて参加しました。
1997年、「アイヌ文化振興法」ができ、北海道旧土人保護法が廃止されました。財団の副読本は、この法律を、1984年の法律案のうち「文化」の部分だけを法律にしたものと書いています。同じ年に、二風谷ダム裁判の判決が、アイヌ民族を先住民族と認めました。
2007年9月13日、国連総会が「先住民族の権利に関する国際連合宣言」を採択しました。2008年6月6日には、衆議院と参議院が「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」を全会一致で採択しました。
2019年、「アイヌ施策推進法」ができました。この法律は、アイヌ民族を先住民族と初めて定め、差別の禁止を書きました。市町村の計画に、国が交付金を出す仕組みも作りました。チロットは、この仕組みを使った幕別町の計画で整備されました。
2020年7月12日、ウポポイ(民族共生象徴空間)が白老町に開業しました。「ウポポイ」は、アイヌ語で「(おおぜいで)歌うこと」という意味です。
出典: 内閣官房アイヌ総合政策室、ウポポイ「アイヌの歴史・文化の基礎知識」、アイヌ民族文化財団「アイヌ民族:歴史と現在」中学生用、幕別町アイヌ施策推進地域計画
十勝のアイヌの歴史 シャクシャインの戦いからサケの禁漁まで
十勝のアイヌの人々も、戦い、商人による支配、サケ漁の禁止を経験しました。1669年のシャクシャインの戦いは十勝に及び、十勝で和人ら20人が殺されました。
十勝は、松前藩のもとで「トカチ場所」とされました。18世紀の前半ごろに、商人による支配が始まりました。拠点は、はじめトカチ(いまの浦幌町の十勝太)にあり、のちにビロウ(いまの広尾)に移りました。
1858年、松浦武四郎が十勝を調べました。このときの調査では、十勝に78のコタン(集落)、284戸があり、1,336人が暮らしていました。一部は1856年の数です。松浦武四郎の調査は、アイヌの人々に案内を頼み、チㇷ゚(丸木舟)に乗せてもらい、家に泊めてもらうことで成り立っていました。
1883年(明治16年)、札幌県は十勝川の上流でのサケ漁を禁じ、監視員を置きました。秋にとったサケを1年分の食べものにしていた人々は、飢えに追い込まれました。禁漁は、1884年から1885年に一時ゆるめられました。
シカも減りました。十勝でとられたシカは、1877年までは年に1万頭弱でしたが、次の年には4万頭になりました。1879年と1882年の大雪で、シカは大量に死にました。
出典: 国土交通省 帯広開発建設部「時をこえて十勝の川を旅しよう 第3章 十勝のアイヌ文化と川」(「道」としての川とコタン、川でのサケ漁の禁止)
十勝と幕別のアイヌの歴史の年表
- 1669年シャクシャインの戦いが十勝に及ぶ。十勝で和人ら20人が殺された
- 18世紀の前半ごろ十勝が「トカチ場所」として、商人の支配を受けるようになる
- 1855年(安政2年)調査で、チロットコタン(いまの幕別町千住)に7戸の家があった
- 1858年松浦武四郎の調査。十勝に78のコタン、284戸、1,336人
- 1883年(明治16年)札幌県が、十勝川の上流でのサケ漁を禁じる
- 1904年・1905年白人(ちろっと)コタンで、1904年に古民共済組合、1905年に白人土人開墾組合ができる
- 1918年(大正7年)音更村(いまの音更町)生まれの武隈徳三郎が『アイヌ物語』を出す。アイヌ自身が自分たちの民族のことを書いた最初の本
- 1931年(昭和6年)吉田菊太郎さんが、北海道アイヌ協会の機関誌『蝦夷の光』の編集と発行にあたる
- 1946年(昭和21年)10月、吉田菊太郎さんが十勝アイヌ協会を作り、会長になる
- 1959年(昭和34年)吉田菊太郎さんが、蝦夷文化考古館を建てる。11月に完成し、12月に落成の式をした
- 1966年(昭和41年)吉田菊太郎さんの遺族が、考古館の建物と収蔵品のすべてを幕別町に寄付する
- 2026年(令和8年)10月1日、考古館の隣に、幕別町アイヌ文化交流センター「チロット」が開館する
出典: 帯広開発建設部「時をこえて十勝の川を旅しよう 第3章」、幕別町「郷土文化ものがたり Part1」「郷土文化ものがたり Part2」「幕別町アイヌ文化交流センター」、アイヌ民族文化財団「アイヌ民族:歴史と現在」中学生用

幕別のチロットコタンと吉田菊太郎さん 1959年の蝦夷文化考古館から2026年のチロットへ
チロットが建つ幕別町千住には、チロットコタンというコタン(集落)がありました。幕別町の資料は、大きくて豊かなコタンだったと書いています。1855年の調査では、7戸の家がありました。
「チロット」は、もともと千住にあった沼の名です。漢字では「白人」と書いて、「ちろっと」と読みました。
写真は、チロットに展示されている文書です。表紙に「明治三十七年三月起」「白人組合」と書かれています。明治37年は、1904年です。
吉田菊太郎さん(1896年〜1965年)は、このチロットで生まれ育った、幕別のアイヌの指導者です。1931年には、北海道アイヌ協会の機関誌『蝦夷の光』の編集と発行にあたりました。1946年10月には、十勝アイヌ協会を作って会長になりました。
吉田菊太郎さんは、1959年に蝦夷文化考古館を建てました。目的は、アイヌ文化を正しい姿で後世に残すことでした。1966年、遺族が建物と収蔵品のすべてを幕別町に寄付しました。
2026年10月1日、考古館の隣にチロットが開館しました。考古館の収蔵品は、チロットの展示館ウチャㇱクマで保管し、展示しています。
出典: 幕別町「郷土文化ものがたり Part2」「郷土文化ものがたり Part1」「アイヌ語に由来する幕別町の地名」「幕別町アイヌ文化交流センター」
アイヌの歴史を自分の目で確かめられる場所
2026年10月3日に撮影チロットの展示を見る
チロットの展示館ウチャㇱクマは、吉田菊太郎さんが集めた資料を保管し、展示しています。交易で伝わった漆器や、明治の文書を見られます。
くわしく見る
2026年10月3日に撮影チロットへの行き方
チロットは、北海道幕別町千住にあります。国道38号に面しています。行き方をまとめました。
くわしく見る
写真はイメージです北海道のアイヌの博物館
白老町のウポポイや、帯広百年記念館のアイヌ民族文化情報センター「リウカ」など、アイヌの歴史と文化を学べる施設を紹介します。
くわしく見る出典: 幕別町「幕別町アイヌ文化交流センター」
出典
- アイヌ民族文化財団『アイヌ民族:歴史と現在』中学生用 財団の副読本(2026年6月・第十七版)。年表、戦い、法律、戦後の歩みの出典です。
- アイヌ民族文化財団『アイヌ民族:歴史と現在』小学生用 財団の副読本(2026年6月・第十六版)。戦いの説明の出典です。
- ウポポイ「アイヌの歴史・文化の基礎知識」 先住民族の意味、アイヌ語、交易、同化政策の中身の出典です。
- 内閣官房アイヌ総合政策室 2008年の国会決議、2019年のアイヌ施策推進法、2020年のウポポイ開業の出典です。
- 北海道アイヌ政策課「北海道アイヌ生活実態調査」 2023年10月1日時点の世帯数と人数の出典です。
- 帯広開発建設部『時をこえて十勝の川を旅しよう』第3章 十勝でのシャクシャインの戦い、トカチ場所、松浦武四郎の調査、サケの禁漁の出典です。
- 幕別町「郷土文化ものがたり Part1」 吉田菊太郎さんの略年譜と、蝦夷文化考古館の出典です。
- 幕別町「郷土文化ものがたり Part2」 チロットコタンの戸数と家系の出典です。
- 幕別町「幕別町アイヌ文化交流センター」 チロットと考古館、1966年の寄付の出典です。
- 文化庁 文化遺産オンライン「アイヌ古式舞踊」 1984年の重要無形民俗文化財の指定の出典です。