10月の終わりの釧路湿原は、ヨシ原が金色に枯れ、丘の木々が赤茶色に色づいていました。湖面には丘と空がそのまま映っています。
環境省によると、釧路湿原の約80%はヨシ・スゲの湿原(低層湿原)とハンノキの林です。湿原の東側に並ぶ塘路湖・シラルトロ湖・達古武湖は、海が退いたあとに残った「海跡湖」とされています。
北海道の地域の歴史 釧路
釧路は、釧路川と広い湿原、太平洋の長い砂浜、阿寒と屈斜路の湖に人びとが暮らしてきた土地です。
対象 釧路出典 16 件この画面の更新 2026年10月29日
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釧路湿原の土地は、古い時代には海でした(環境省)。湿原のまわりの丘には、旧石器時代からアイヌ文化の時代までの遺跡が約400か所あり、塘路元村には江戸時代後期の文献に大きなコタン(集落)が書かれています。釧路川の流域には、国の史跡の「釧路川流域チャシ跡群」が残ります。
江戸時代、厚岸は道東の交易と幕府の拠点でした。1789年のクナシリ・メナシの戦いでは、厚岸の長イコトイが争いを収める中心になり、1804年には幕府が厚岸に国泰寺を置くことを決めました。
明治になると、1884年に鳥取県の士族が移住して鳥取村ができ、1885年に標茶に釧路集治監が開かれて、囚人が硫黄山の採掘や道路づくりに使われました。その後の釧路は、太平洋炭礦と雄別炭砿の石炭、製紙工場、港、サンマの水揚げで大きくなり、1975年には人口20万人の都市になりました。
1952年、タンチョウとマリモが国の特別天然記念物になり、1980年に釧路湿原は日本で最初のラムサール条約湿地に登録され、1987年7月31日に国立公園になりました。
2026年10月 現地取材
2026年10月に、朝比奈幸太郎が釧路湿原と白糠町恋問で撮った写真と動画です。いまの釧路の土地の姿と音の記録です。

10月の終わりの釧路湿原は、ヨシ原が金色に枯れ、丘の木々が赤茶色に色づいていました。湖面には丘と空がそのまま映っています。
環境省によると、釧路湿原の約80%はヨシ・スゲの湿原(低層湿原)とハンノキの林です。湿原の東側に並ぶ塘路湖・シラルトロ湖・達古武湖は、海が退いたあとに残った「海跡湖」とされています。
湿原の中をゆっくり流れる川と、岸の林を撮りました。風と水の音も入っています。
釧路川は、江戸時代から明治まで、内陸と海を結ぶ道でした。1927年に釧網線が開通すると、釧路川の舟の交通はなくなったと釧路町の資料は書いています。
白糠町の恋問の海岸は、黒い砂浜に太平洋の波が絶えず打ち寄せる浜です。映像の音は、現地で録音機を使って録った波の音を整えたものです。
白糠町の年表によると、1995年に恋問自然観察公園と展望塔ができ、1997年には物産センター恋問館が改装して開きました。白糠という町の名は、アイヌ語で波が磯を越えてしぶきが立つ「岩磯のほとり」を指すといわれます(白糠町)。
湿原の土地の説明は環境省「釧路湿原国立公園の特徴」、恋問の年は白糠町「むかしむかし白糠」、白糠の名は白糠町「白糠町は、こんな町」によります。写真と動画の著作権は朝比奈幸太郎にあります。
16世紀〜1868年



釧路湿原のまわりの丘には、旧石器時代からアイヌ文化の時代までの遺跡が約400か所あります。釧路市の北斗遺跡は1952年に見つかり1977年7月14日に、東釧路貝塚は1970年7月22日に国の史跡になりました。厚岸町には、16世紀から18世紀に築かれたとされるチャシ跡が多く残ります。
1643年、オランダ東インド会社の船が厚岸に寄り、そこで暮らすアイヌの人びとのことを航海の記録に残しました。厚岸町は、アイヌの人びとが自分たちの土地を「アッキス」と呼んでいたと紹介しています。
1789年、場所請負のもとでの酷使が引き金となって、クナシリ・メナシの戦いが起きました。厚岸の長イコトイは、国後のツキノエとともに争いを収める中心になりました。1799年に東蝦夷地は幕府の直轄になり、1804年に幕府は厚岸に国泰寺を置くことを決めました(文化遺産オンラインは1802年とします)。国泰寺跡は1973年10月29日に国の史跡になっています。
1843年の大地震では、釧路で5メートルの津波が2回記録されました。1853年の釧路場所のアイヌの人口は1,298人、1857年の厚岸のアイヌの人口は201人に減っていました。白糠町の年表は、1857年に北海道で最初の石炭が白糠で掘られたとしています。
1869年〜1912年



1877年、弟子屈の硫黄山(アトサヌプリ)で硫黄の採掘が始まりました。1884年6月9日には鳥取県の士族41戸207人が移住し、翌年5月14日に第2次の64戸306人が続いて、鳥取村ができます。1885年、茂尻矢のアイヌの人びと27戸137人がいまの鶴居村の下雪裡に移って農業を始めました。
1885年、標茶に釧路集治監が開かれました。囚人は1886年から硫黄山の採掘に使われ、1889年には囚人の労働で釧路と標茶を結ぶ道が開通しています。安田善次郎は標茶に製錬所を建て、1888年に硫黄山から標茶まで、道東で最初の鉄道の釧路鉄道を通しました。
1890年、厚岸の太田に士族の屯田兵440戸が入り、太田村ができました。屯田兵の家は、集治監の囚人たちが建てたものです。1897年に阿寒湖でマリモが見つかり、1902年には弟子屈コタンが屈斜路コタンに移されました。
1899年に釧路港は開港し、1900年7月1日に釧路は町になりました。1901年に白糠と釧路の間に鉄道が通り、1905年に帯広まで、1907年には函館まで鉄道がつながります。1906年、前田正名は阿寒湖のまわりの払い下げを受け、自分の土地を「一歩園」と呼びました。
1912年〜1926年


1917年に根室線の釧路と浜厚岸の間が開業し、1921年8月5日に根室まで全線が通りました。1920年に木村組炭鉱と三井釧路炭鉱が合わさって太平洋炭礦ができ、同じ年、富士製紙釧路工場が操業を始めます。1919年には雄別炭礦鉄道の前身の会社が生まれています。
1920年7月1日、釧路町は区になり、1922年8月1日に市になりました。1920年の第1回の国勢調査では、釧路区は39,392人です。1924年、鶴居のチルワツナイでタンチョウ十数羽が再び見つかりました。
1925年、太平洋炭砿の知人の高架桟橋ができて、石炭の積み出しが始まりました。釧路港の第1期の修築工事は1926年に終わっています。
1926年〜1945年8月

1927年に釧網線が標茶まで、1929年に弟子屈まで延び、1931年9月20日に網走側とつながって全線が開通しました。1930年には阿寒湖畔と弟子屈を結ぶ阿寒横断道路が通り、1934年12月4日、阿寒国立公園が日本で最初の国立公園の一つに指定されました。1935年8月27日にはタンチョウが天然記念物になっています。
炭鉱では事故も起きました。1928年12月21日の太平洋炭礦春採坑の坑内火災では11人が亡くなっています。1940年、太平洋炭礦の年間の出炭は初めて100万トンを超えました。同じ年、太平洋炭礦の別保坑では朝鮮人約800人が強制的に働かされ、雄別炭砿では朝鮮人457人がストライキを起こし、70人が検挙されています。
1945年7月14日と15日、米軍の艦載機が延べ141機、8波にわたって釧路地方を空襲しました。釧路市の市史年表によると、釧路市(当時の鳥取町を含む)で死者193人・負傷者273人、失われた家屋は1,375戸、音別村で死者9人、阿寒村で死者5人、沿岸の漁船で死者と行方不明28人です。厚岸と白糠も空襲を受けました。
1945年8月〜1988年




1949年10月10日、釧路市と鳥取町が合わさりました。1950年、マリモ愛護会ができて第1回のまりも祭が開かれ、同じ年の10月、マリモの返還運動を目的に阿寒湖アイヌ協会がつくられて、まりも祭を立ち上げました。1959年、前田一歩園の園主がアイヌの人びとに土地を無償で提供し、分かれて暮らしていた人びとが集まって、いまの阿寒湖アイヌコタンの元の形ができました。
1952年、阿寒町と鶴居村でタンチョウの冬の給餌が成功し、同じ年の3月29日、タンチョウとマリモは国の特別天然記念物になりました。1952年3月4日の十勝沖地震と、1960年5月24日のチリ地震の津波では、浜中町で大きな被害が出ています。
1970年2月27日、雄別炭鉱の雄別・尺別・上茶路の3つの鉱山がそろって閉山し、雄別鉄道と尺別鉄道も廃止されました。駅前の町は閉山からまもなく人がいなくなりました。1975年の国勢調査で釧路市は206,689人の20万都市になり、1975年12月8日には春採のアイヌ古式舞踊が記録をつくるべき無形の民俗文化財に選ばれました。1984年1月21日、アイヌ古式舞踊は国の重要無形民俗文化財に指定され、春採・阿寒・屈斜路古丹・白糠の保存会が保護団体に入っています。
1980年6月17日、釧路湿原は日本で最初のラムサール条約湿地に登録され、1982年に屈斜路コタンアイヌ民族資料館が開館し、1987年7月31日に釧路湿原国立公園が指定されました。
1989年〜

1993年1月15日の釧路沖地震では、厚岸町と釧路町で震度6を記録し、釧路市でも死者が出ました。同じ1993年、厚岸湖・別寒辺牛湿原がラムサール条約湿地に加わりました。
2002年1月30日、太平洋炭砿が閉山しました。2005年10月11日、釧路市・阿寒町・音別町が合わさって新しい釧路市が始まりました。釧路町・白糠町・鶴居村は、住民の意見を受けて合併しない道を選んでいます。
2012年に阿寒湖アイヌシアター「イコロ」が開き、2017年に阿寒国立公園は阿寒摩周国立公園に名を改めました。2018年7月1日、標茶町博物館ニタイ・トが開館し、塘路コタンの祭具や丸木舟を展示しています。2021年3月30日には厚岸霧多布昆布森国定公園が指定され、2024年5月に阿寒アイヌクラフトセンターが開館しました。
2025年8月8日に認定された弟子屈町の計画は、屈斜路コタンアイヌ民族資料館の改修による通年の開館と、チセ(家)の建設を掲げています。2023年、釧路市の人口は61年ぶりに16万人を下回りました。
釧路には1市6町1村があります。名の由来は北海道『アイヌ語地名リスト』(2007年)の該当ページから、始まりと歩みは各市町村と国の機関の公開資料から書いています。「年表で…を見る」を押すと、下の通しの年表がその市町村だけになります。
戦後すぐ、アメリカ軍が釧路を空から撮った写真です。釧路川の河口の市街、広い湿原の中を曲がる川、厚岸湾、霧多布の島などが写っています。写真を押すと大きな画像で見られます。
















幣舞橋、馬市、鳥取村の農家、阿寒湖、屈斜路湖、塘路湖、厚岸の牡蠣島の網漁、霧多布などが写っています。























1643年から2025年まで、釧路の出来事を時代ごとに並べています。行ごとに出典のリンクがあります。市町村を選ぶか、言葉を入れると絞りこめます。
| 出来事 | ある資料 | 別の資料 |
|---|---|---|
| 厚岸の国泰寺の始まり | 享和2年=1802年(文化遺産オンライン) | 文化元年=1804年に設置が決まる(厚岸町) |
| 1945年7月の釧路の空襲の死者 | 193人(釧路市の市史年表。当時の鳥取町を含む) | |
| 太平洋炭礦の閉山 | 2002年1月30日に閉山(釧路市の年表) | 1月31日に後継の会社が操業を始める |
| 1993年の釧路沖地震の規模 | マグニチュード7.5(地震調査研究推進本部) | 7.8(別の被害の報告) |
| 釧路集治監の名の変更 | 1887年に釧路監獄署(標茶町) | |
| 白糠アイヌ文化保存会が保護団体に加わった年 | 1994年(白糠町の地域計画) | 1995年(白糠町の年表) |
| 北海道で最初の石炭の採掘 | 1857年、白糠(白糠町の年表) | 1856年、釧路のオソツナイとする資料もある(北海道の資料。 |