北海道の地域の歴史 十勝
十勝の歴史
十勝は、約3万年前から人が住み、アイヌの人びとが川とともに暮らし、明治の開拓で一気に姿を変えた土地です。この画面は、十勝の歴史を一つにまとめたものです。年表474行、19市町村の歩み、古写真と当時の暮らしのイメージの絵を、時代の順に並べています。
対象 十勝出典 13 件この画面の更新 2026年10月29日
昔と今をくらべるこの画面の空中写真 16 点は、写真の下の切り替えで、同じ範囲を写した現在の写真に替えられます。「なぞって比べる」を選ぶと、写真の上を左右になぞるたびに、昔と今の境目が動きます。

十勝の歴史を一言でいうと 川とサケの土地が、畑作と酪農の地になるまで
十勝の歴史は、十勝川の歴史です。約3万年前の旧石器の時代から人が住み、13世紀ごろからはアイヌの人びとが十勝川とその支流ぞいにコタン(集落)をつくって、サケとシカとともに暮らしました。
江戸時代には十勝川の河口の大津がトカチ場所の拠点になりました。1858年に松浦武四郎が数えた十勝のコタンは78、人は1,336人です。
大きな転換は1883年です。札幌県が十勝川の流域でサケ漁を禁じ、同じ年に晩成社13戸27人が帯広に入りました。1892年に2,960人だった十勝の人口は、1908年には約6万人になりました。アイヌの人の割合は約56%から約3%に変わりました。
そのあとの十勝は、豆の値の上がり下がり、くり返す冷害と洪水、1945年の本別と帯広の空襲を経て、1982年には農業の粗生産額が2,000億円に達する、畑作と酪農の地になりました。
約3万年前〜12世紀
旧石器から擦文まで 十勝には3万年前から人が住む



十勝で最も古い遺跡は約3万年前のもので、旧石器時代の遺跡は十勝に約100か所あります(帯広百年記念館)。帯広の川西C遺跡では石刃をつくる技法の跡が見つかり、オホーツク側の置戸の黒曜石も運ばれていました。
帯広の大正3遺跡からは、北海道で最も古い時期の土器が出ています。幕別の札内N遺跡・途別7遺跡・古舞G遺跡などにも、竪穴住居の時代の暮らしの跡が残ります。
本州が弥生時代に入るころ、北海道は続縄文時代になりました。7世紀から12世紀の擦文時代には、十勝の集落は海岸と十勝川・利別川の流域に集まり、かまどの付いた四角い竪穴住居が広まって、雑穀の栽培が始まります。
さらに古い十勝には、ナウマン象がいました。1969年7月、忠類(いまの幕別町)の農道の工事中に化石が見つかり、全身の骨の70〜80%にあたる47個の化石から、日本で初めて全身の骨格が復元されました。
13世紀〜16世紀
アイヌ文化の時代の十勝 川ぞいのコタンと約70のチャシ

13世紀ごろ、アイヌ民族の伝統とされる暮らしの形の多くが見られるようになります。十勝では十勝川とその支流ぞいにコタン(集落)がつくられ、川ではサケを、山ではシカを得て暮らしました。
十勝の川ぞいの高台には、約70か所のチャシがつくられました(帯広開発建設部)。幕別には、幕別神社・金毘羅・軍岡・稲志別・依田の5つのチャシ跡があります。陸別町のユクエピラチャシ跡は、1987年9月8日に国の史跡になりました。
道南では、1457年のコシャマインの戦いから約百年、アイヌ民族と和人の戦いが何度も起こりました。13世紀には、津軽の十三湊を拠点にした安東(安藤)氏が北方との交易を行っています。
アイヌ文化の意味づけは、出典に書かれたことだけを書いています。十勝のアイヌの人びとの歴史は、十勝のアイヌとアイヌの歴史の画面にくわしくまとめています。
17世紀〜1868年
近世の十勝 トカチ場所と大津、松浦武四郎の旅



17世紀、十勝にはトカチ場所が置かれ、松前藩士の蠣崎蔵人広林の知行地になりました。交易の拠点は、はじめトカチプト(いまの浦幌町十勝太)にあり、のちにトマリ(いまの広尾)へ移ります。1635年には、和人が歴舟川の下流(いまの大樹町)などで砂金をとっていました。
1643年、オランダ東インド会社のフリースが率いる船カストリクム号が十勝沖に停まり、出会ったアイヌの人から土地の名を「タカプチ」と教わった記録が残ります。1669年には、首長シャクシャインの呼びかけにこたえて、十勝のアイヌも立ち上がりました。
18世紀、松前藩は各地の交易と漁を商人に請け負わせ、トカチ場所では浜屋久七が経営を始めました。1789年には十勝川が不漁になり、飢えて亡くなる人が出ています。
1798年ごろには河口の大津に番屋があり、1799年(寛政11年)には幕府が大津に駅逓(旅の宿と馬の継ぎ立ての所)を置きました。1800年には伊能忠敬が海岸を測り、皆川周太夫が大津から十勝川をさかのぼって調べています。1805年には大津と釧路の間に道ができました。
1858年(安政5年)、松浦武四郎は十勝の内陸を歩き、アイヌの人の案内で十勝川を舟で下りました。この調査で数えられた十勝のコタンは78、家は284戸、人は1,336人です。武四郎は幕別のヤムワツカヒラで粟の団子をふるまわれ、芽室ではアイヌの人の家に泊まりました。
1869年〜1912年
明治の十勝 サケ漁の禁止と、晩成社から始まった開拓






1869年、蝦夷地は北海道と名を改め、十勝国には7つの郡が置かれて、場所請負の制度は廃止されました。1875年には、アイヌと和人がシカ狩りと漁を管理する十勝組合をつくります。1879年にはトノサマバッタが大発生し、その後数年、北海道の各地に被害が広がりました。
1883年、札幌県は河口を除く十勝川の流域でサケ漁を禁じ、サケで暮らしてきた内陸のアイヌの人びとに飢えが起こりました。同じ年の5月、依田勉三の晩成社13戸27人が下帯広村(いまの帯広市)に入り、十勝の開拓が始まります。
1885年、札幌県は十勝川と利別川ぞいの12か所にアイヌの人びとを集めて農業を教えましたが、1888年に264戸で200町歩あまりを開いたところで終わりました。1896年に「アイヌ保護地」が決められ、1899年の北海道旧土人保護法で農地が与えられます。1892年に2,960人だった十勝国の人口のうち、アイヌの人は約56%でした。1908年には人口が約6万人になり、アイヌの人の割合は約3%になりました。
道庁は1892年に下帯広村を起点に原野の区画を測り、1896年に土地の貸し付けを始めると、移民が一気に増えます。大津と帯広・芽室を結ぶ大津街道は、釧路分監の受刑者を使って1892年から開かれ、1895年には十勝分監(のちの十勝監獄)が帯広に置かれました。1898年には、渋沢栄一の熊牛農場(いまの清水町)に越前から26戸99人、岐阜県の美濃開墾合資会社が中士幌に入るなど、県ごとの団体の入植が続きました。
1898年9月の大洪水では、十勝で死者21人、全壊した家128戸。1905年に釧路と帯広、1907年に旭川と帯広の間の鉄道がつながり、帯広は農産物の集まる町になりました。1902年には、72歳の関寛斎が斗満(いまの陸別町)に入っています。
1912年〜1926年
大正の十勝 豆成金と製糖、そして1922年の大洪水






1916年から1919年まで、第一次世界大戦で農産物の値が上がり、十勝には「豆成金」「澱粉成金」が次々に生まれました。本別では1917年、開村以来の好景気と記されています。1919年には北海道製糖(いまの日本甜菜製糖)が設立され、十勝の作付面積は10万町歩を超えました。
1920年、戦後の恐慌で農産物の値は暴落しました。1922年8月の台風の洪水では、熊牛で雨量259.9ミリ、死者9人、流された家240戸。この洪水をきっかけに、十勝川の本格的な治水の工事が始まります。
鉄道は奥へ延びました。1910年に池田と陸別の間が開業し、1924年には北海道製糖の専用線を引き継いだ十勝鉄道が営業を始めます。1924年には帯広で最高気温37.8度を記録しました。北海道の観測で最も高い気温です(十勝総合振興局の年表)。
幕別の止若では、1913年に新田帯革製造所の製渋工場ができ、1918年5月に合資会社新田ベニヤ製造所が設立されました。合板の工場は、町の暮らしの中心になっていきます。
1926年〜1945年8月
昭和の戦前と戦中 凶作と、1945年7月の空襲






1926年、十勝岳が大噴火しました。1929年の世界恐慌のあと、1930年には豊作なのに値が暴落する「豊作貧乏」が起こり、1931年・1932年・1934年・1935年には冷害による凶作が続いて、各地で救済の土木工事が行われました。1930年の十勝の馬は約5万2千頭です。
町は姿を変えていきました。1930年、藤丸呉服店は藤丸百貨店と名を改め、十勝で初めてのエレベーターのある4階建ての店を建てました。1933年に帯広は市になり、1934年には8年かけた黄金道路が広尾から開通しました。
アイヌの人びとの側では、1927年に帯広で十勝アイヌ旭明社ができました。幕別の吉田菊太郎は1929年に白人古潭矯風会をつくり、1930年に『蝦夷の光』の創刊号を出しています。
1940年、帯広に陸軍の飛行隊ができ、帯広第一飛行場が置かれます。1945年7月14日と15日、アメリカ軍の飛行機が帯広を空襲しました。15日の朝には本別の市街が米軍の艦載機43機に攻撃され、死者40人、全焼と大破倒壊が392戸と、十勝で最も大きな被害を受けました(本別町)。大樹町でも死者2人が出ています。
1945年8月〜1988年
戦後の昭和 食糧の時代から、畑作と酪農の地へ



1945年、終戦と大凶作が重なり、十勝は物資と食糧が極度に足りなくなりました。1946年には本別の旧軍馬補充部の跡に北海道農業講習所ができ、1947年の農業協同組合法を受けて各地に農協が生まれます。
1952年3月4日の十勝沖地震はマグニチュード8.2。死者と行方不明33人、全壊した住まい815棟の被害を出し、幕別では震度6でした。
1954年、小豆の値は1俵1万円に上がり「赤いダイヤ」と呼ばれました。1961年に大豆の輸入が自由化されると、十勝の大豆の作付は激減しました。1970年にてん菜100万トン、乳牛10万頭に達し、1982年には十勝の農業の粗生産額が2,000億円になりました。
冷害は続き、1964年・1966年・1971年・1980年・1983年に凶作が記録されています。被害は1983年が最も大きく、579億円でした。
交通では、1965年10月15日に日勝道路が開通し、1966年12月1日に帯広駅に民衆駅が開業しました。1981年に新しい帯広空港が開き、1980年代の終わりには、国鉄の広尾線と士幌線が廃止されます(広尾線の廃止の年は資料で食い違うので、下の表に並べています)。
1989年〜
平成と令和の十勝 鉄道の廃止、合併、地震と津波

1989年、国鉄池北線はふるさと銀河線として新しく開業しましたが、2006年に廃止されました。陸別町では2008年から、残された線路で「ふるさと銀河線りくべつ鉄道」が動いています。
1993年の釧路沖地震では本別町で大きな被害が出ました。2003年9月の十勝沖地震では広尾町が震度5強、十勝港で約2.7メートルの津波を観測し、幕別町は震度6弱でした。2011年3月11日の東日本大震災でも、十勝港で2.8メートルを超える津波が観測されています。
2000年には十勝で口蹄疫が発生しました。2006年2月6日、忠類村が幕別町に編入され、2010年4月1日に十勝支庁は十勝総合振興局になりました。
2026年10月1日、幕別町千住に幕別町アイヌ文化交流センター(チロット)が開館しました。かつて白人コタンのあった土地です。
十勝の19市町村 名の由来と、始まりと、歩み
十勝には1市16町2村があります。名の由来は北海道『アイヌ語地名リスト』(2007年)から、始まりと歩みは各市町村の公式の沿革から書いています。「年表で…を見る」を押すと、下の通しの年表がその市町村だけになります。
帯広市
- 名の由来
- アイヌ語のオペレペレケプ「川口がいくつにも分かれている川」(『北海道駅名の起源』(山田秀三の補足つき)の説) 地名の地図で見る
- 始まり
- 1883年5月、依田勉三の晩成社13戸27人が下帯広村に入る
- 市町村の歩み
- 1933年に市になる
- 市町村史
- 『帯広市史』を市が公開している
音更町
- 名の由来
- アイヌ語のオトプケ「髪の毛が生える(所)」(永田方正(山田秀三の補足つき)の説) 地名の地図で見る
- 始まり
- 1880年、岩手県出身の大川宇八郎が住み始める
- 市町村の歩み
- 1906年に2級村、1921年に1級村、1953年に町になる
士幌町
- 名の由来
- アイヌ語のスポロ「滝のような急流」(松浦武四郎の説)。またはアイヌ語のスオルペッ「鍋の川?」(永田方正の説)。またはアイヌ語のスホロペッ「鍋を水につけた川」(山田秀三の補足の説) 地名の地図で見る
- 始まり
- 1898年3月、岐阜県の美濃開墾合資会社の一行が中士幌に入る。濃尾の大震災と水害がきっかけ
- 市町村の歩み
- 1926年に士幌村になる
上士幌町
- 名の由来
- 1931年に士幌村から分かれたとき、川の上流にあるので士幌に「上」を付けた名 地名の地図で見る
- 始まり
- 1907年3月11日、安村治高丸が駒場から上士幌に入る
- 市町村の歩み
- 1921年4月、音更村から川上村として分かれる(772戸)
鹿追町
- 名の由来
- アイヌ語のクテクウシイ「鹿を捕る柵がある所」(山田秀三の説) 地名の地図で見る
新得町
- 名の由来
- アイヌ語のシットク「ひじ(山の突き出た所)」(山田秀三の説)。またはアイヌ語のシントコ「宝物を入れる漆器」(『新得町史』の説) 地名の地図で見る
- 始まり
- 1899年、山形県東根市出身の村山和十郎ほか13戸が開拓を始める
清水町
- 名の由来
- アイヌ語のペケレペッ「澄んだ川」(山田秀三の説) 地名の地図で見る
- 始まり
- 1898年、渋沢栄一が開いた熊牛農場に越前から26戸99人が入る
- 市町村の歩み
- 1903年に人舞村外一ヵ村戸長役場(町はこれを開町とする)、1927年に清水村、1936年1月1日に町になる
芽室町
- 名の由来
- アイヌ語のメムオロペッ「わき水の池から来る川」(永田方正(山田秀三の補足つき)の説) 地名の地図で見る
- 始まり
- 1900年、戸長役場が置かれ芽室村が生まれる。戸数424、人口1,600人あまり
中札内村
- 名の由来
- 札内川の中流にあるので付いた名。札内はアイヌ語のサッナイ(乾く川)から 地名の地図で見る
- 市町村史
- 『中札内村史』(1967年)と『新中札内村史』(1997年)
更別村
- 名の由来
- アイヌ語のサラペッ「ヨシ原の川」(山田秀三の説) 地名の地図で見る
- 始まり
- 1926年4月に大正村(いまの帯広市)に属する
- 市町村の歩み
- 1947年9月、大正村から分かれて更別村になる
大樹町
- 名の由来
- アイヌ語のタイキウシイ「ノミが多い所」(永田方正(山田秀三の補足つき)の説) 地名の地図で見る
- 始まり
- 1882年、佐藤嘉兵衛が湧洞で和牛を飼い始める(十勝総合振興局の年表)
- 市町村の歩み
- 1949年8月に忠類村が分かれ、1951年4月に町になる
広尾町
- 名の由来
- アイヌ語のピリオロ「(山の)蔭の所」(上原熊次郎・永田方正(山田秀三の補足つき)の説)。またはアイヌ語のピオロ「小石の所」(松浦武四郎(山田秀三の補足つき)の説)。またはアイヌ語のピルイペッ「砥石の川」(永田方正の説) 地名の地図で見る
- 始まり
- 1869年、広尾郡などが置かれた年を開町の年とする
- 市町村の歩み
- 1926年に茂寄村を広尾村に改め、1946年に町になる
幕別町
- 名の由来
- アイヌ語のマクウンペッ「山の側(後ろ)にある川」(山田秀三の説)。またはアイヌ語のマクンペッ(マㇰウンペッ)「川岸から離れた奥の土地を流れる川」 地名の地図で見る
- 始まり
- 1897年9月1日、幕別など7村の戸長役場が猿別市街に置かれる。町はこの年を開基とする
- 市町村の歩み
- 1906年に幕別村、1946年9月15日に町、2006年2月6日に忠類村と合わさる
池田町
- 名の由来
- 1896年に開拓の農場を開いた池田侯爵にちなむ和名 地名の地図で見る
- 始まり
- 1896年に池田侯爵が開拓の農場を開く(町の名のもと)
豊頃町
- 名の由来
- アイヌ語のトプヨカオロ「意味は分からない」(永田方正の説)。またはアイヌ語のトエコロ「フキがたくさん?」(『北海道駅名の起源』昭和22年版(のちの版は「?」)の説) 地名の地図で見る
- 始まり
- 1798年ごろには大津に番屋があり、1799年に駅逓が置かれる。和人の入植は1881年の旅来の藤井富兵衛から
- 市町村の歩み
- 1906年に2級町村制で豊頃村になる
本別町
- 名の由来
- アイヌ語のポンペッ「小さい川」(山田秀三の説) 地名の地図で見る
- 始まり
- 1893年秋、長野県出身の篠原相松が住むために入る(いまの向陽町)
- 市町村の歩み
- 1915年に2級町村制、1923年に1級町村制、1933年に町になる
- 市町村史
- 町が『追補 本別町史 第二巻』を公開している
足寄町
- 名の由来
- アイヌ語のエソロペッ「沿って下る川」(『北海道駅名の起源』の説) 地名の地図で見る
- 始まり
- 1883年、根室県が中足寄でアイヌの人への農業の指導を始める
- 市町村の歩み
- 1955年4月1日、西足寄町と足寄村が合わさって足寄町になる
陸別町
- 名の由来
- アイヌ語のリクンペッ「高く危ない川?」(永田方正の説)。またはアイヌ語のリクウンペッ「高い所にある川」(山田秀三の説) 地名の地図で見る
- 始まり
- 1901年に関又一が斗満に入り、1902年に72歳の父・関寛斎が続く
- 市町村の歩み
- 1919年に淕別村、1949年に陸別と改め、1953年に町になる
浦幌町
- 名の由来
- アイヌ語のオラプオロ「ヤマシャクヤク?の多い所」(永田方正(山田秀三の補足つき)の説)。またはアイヌ語のウララポロ「霧が多い」(山田秀三の補足の説) 地名の地図で見る
空から見た十勝の町 1947年と1948年の空中写真 17点
戦後すぐ、アメリカ軍が十勝を空から撮った写真です。碁盤の目の市街、短冊形の畑、防風林、まだ堤防の少ない十勝川の流れが写っています。写真を押すと大きな画像で見られます。

































十勝の古写真 26点と解説
古い順に並べています。市町村か年代を選ぶと、その写真だけを表示します。写真を押すと大きな画像で見られます。解説には、写真集の記述と、別の結果を並べています。
市町村
年代

出典 十勝の歴史の写真集(資料館の所蔵資料) 十勝で最初の学校のひとつ 広尾学校
広尾町(当時の茂寄村)にあった広尾学校の校舎と、玄関の前に並んだ人たちの写真です。玄関の上の横額に、右から「広尾学校」と書かれています。
写真集の解説によると、1879年(明治12年)に開かれた広尾教習所が、1881年(明治14年)に新しい校舎を建てて広尾学校と名を改め、7月に開校しました。茂寄村にただ一つの学校で、児童は7人でした。大津の小学校とともに、十勝で最初の学校とされています。

出典 十勝の歴史の写真集(資料館の所蔵資料) 広尾尋常小学校 移る前の校舎に並ぶ100人
日の丸の旗を2本交差させた広尾尋常小学校の玄関の前に、着物の児童と大人が100人近く並んだ写真です。
写真集の解説によると、児童が増えて校舎が手狭になり、学校は中通り5丁目に新しい校舎を建てて移ることになりました。解説は、この写真を移る前の最後の卒業の記念写真であろうとしています。
18年前の1881年(明治14年)、広尾学校の児童は7人でした。同じ町の2枚の写真を並べると、明治の広尾に人が増えていった様子が分かります。

出典 十勝の歴史の写真集(資料館の所蔵資料) 陸別駅前の待合所「まるうめ」
陸別駅の前にあった待合所「まるうめ」(丸の中に梅の字の印)の店先です。軒に提灯が下がり、「SAPPORO BEER」の星の看板と「たばこ」の札が見えます。店の前には学生帽の男の子と、袴姿の男性と女性が立っています。
写真集の解説によると、河本福太郎が陸別駅の前にこの待合所を開いたのは1912年(明治45年)です。駅を使う人が立ち寄って食事をしたり、汽車を待つあいだ休んだりしました。向かいには陸別館という大きな旅館もありました。

出典 十勝の歴史の写真集(資料館の所蔵資料) 新田ベニヤ製造所の落成式 止若の駅前に工場ができた日
幕別町の止若(いまの幕別の市街)にできた新田ベニヤ製造所の、創業の披露と落成の式の日の写真です。広い草地に着物の人たちが大勢集まり、旗を立てた櫓と、空に張った万国旗の綱が見えます。
写真集の解説によると、大阪に本社のある新田ベルトは1910年(明治43年)、止若駅の前に、自社の農場のナラとカシワの皮を原料にする製渋の工場を建てました。1918年(大正7年)に資本金50万円で合資会社新田ベニヤ製造所を作り、9月1日に盛大な式を開きました。
幕別町の資料編では、新田帯革製造所の製渋工場ができたのは1913年(大正2年)、合資会社新田ベニヤ製造所の設立は1918年5月です。工場の始まりの年は、写真集と町の資料で食い違っています。

出典 十勝の歴史の写真集(資料館の所蔵資料) 開拓者を悩ませたヒグマ 茂寄原野の225キロの雄
丸太を組んだ枠に吊るした大きなヒグマを囲んで、制服と制帽の人、外套の人、白く長いひげの年配の人などが並ぶ記念写真です。
写真集の解説によると、1922年(大正11年)9月26日に広尾町の茂寄原野に出たヒグマで、重さは225キロ、4歳ほどの雄と見られています。高松茂が村田銃でしとめ、丸山公園でこの写真を撮りました。
開拓のころの十勝では、各地でヒグマによる家畜や作物の被害がありました。

出典 十勝の歴史の写真集(資料館の所蔵資料) 69ページ 帯広町の大通り 道の主役は人と自転車
帯広の大通りを、南4丁目のあたりから南に向かって写した写真です。舗装のない広い道がまっすぐ延び、道の真ん中を自転車の男性が走り、子どもたちが立っています。左の奥には、丸屋根をのせた洋風の建物が見えます。
写真集の解説によると、大通りは1894年(明治27年)に区画され、道幅の広い帯広の中心の通りとして発展しました。当時の広い道は、歩く人と自転車のものでした。
帯広が市になるのは1933年(昭和8年)です。この写真のころの帯広は、まだ町でした。

出典 十勝の歴史の写真集(資料館の所蔵資料) 十勝で最初の乗合自動車 帯広から広尾へ85キロ
2階建ての建物の車庫に、箱型の乗合自動車が2台並んでいます。車の前には帽子の男性と着物の女性が立ち、手前に自転車が1台止まっています。
写真集の解説によると、十勝に自動車が入ったのは1915年(大正4年)です。1926年(大正15年)に竹腰広蔵が十勝自動車合資会社を作り、帯広と広尾の間の85キロ、帯広と音更の間の8キロで乗合自動車の営業を始めました。1928年(昭和3年)に、会社の実権は野村文吉に移りました。

出典 十勝の歴史の写真集(資料館の所蔵資料) 鹿追に初めて来た大臣 幻に終わった鉄道
幌を掛けた馬車に、白い服の男性と着物の女性が乗っています。周りには麦わら帽の男性たちが立ち、後ろは林と原野です。夏の写真です。
写真集の解説によると、小川平吉は1919年(大正8年)、クテクウシ原野(いまの鹿追町中鹿追)で282町歩あまり(約282ヘクタール)の土地の払い下げを受け、小作人を入れて開拓させました。1928年(昭和3年)に鉄道大臣になると、農場を見に鹿追を訪れました。
このとき、木野から鹿追までの鉄道が計画されました。しかし小川が汚職事件で大臣を退き、鉄道は実現しませんでした。

出典 十勝の歴史の写真集(資料館の所蔵資料) 新田ベニヤの野遊会 工員290人の工場
花の咲いた木の下にむしろを敷いて、着物に日本髪の女性たちと、カンカン帽や中折れ帽の男性たち50人ほどが並んでいます。白い前掛けの人や、太鼓を持つ人もいます。
写真集の解説によると、幕別の止若にあった新田ベニヤの工場は、全国でも指折りの合板の工場で、海外にも輸出していました。このころの工員は290人で、写真は従業員をねぎらう野遊会の様子です。

出典 十勝の歴史の写真集(資料館の所蔵資料) 広尾の本通り6丁目 林商店の前の人だかり
2階建ての木造の商店の前の通りが、人だかりで埋まっています。帽子をかぶった人や着物の人が多く、祭りか行事の日の写真です。
写真集の解説によると、この店は広尾の本通り6丁目にあった林寅太郎の造材と木材の店です。林寅太郎は、商業組合の組合長などを務めました。店の後ろの建物は、黄金屋の住宅です。

出典 十勝の歴史の写真集(資料館の所蔵資料) 56ページ 帯広の通りを行く連隊 1931年秋の機動演習
舗装のない通りを、兵士と、馬に引かせた荷車の列が奥まで続いています。右の建物には「銀座市場」の看板があり、沿道には見物の人が並んでいます。
写真集の解説によると、満州事変が始まった1931年(昭和6年)の秋、第7師団の機動演習が十勝平野で行われ、部隊が帯広の町の中を行進しました。場所は西2条南9丁目で、解説は、写真の中のビルを1930年(昭和5年)に建った藤丸デパートとしています。

出典 十勝の歴史の写真集(資料館の所蔵資料) 帯広の商家の嫁入り 部屋いっぱいの嫁入り道具
畳の部屋の真ん中に、日本髪と着物の女性が座っています。周りには、衣装を掛けた衣桁、たんす、積み上げた布団、鏡台、反物の箱、水仙の鉢植えが並んでいます。
写真集の解説によると、帯広の商家の嫁入りの写真で、着物やたんすなどの嫁入り道具が部屋いっぱいに並べられています。

出典 十勝の歴史の写真集(資料館の所蔵資料) 58ページ 十勝神社の仮装行列 大太鼓と小太鼓
広尾町の十勝神社で、仮装行列の人たちが並んだ記念写真です。大太鼓を打つ少年、小太鼓を下げた人、着物を頭からかぶった人や、つけひげの人がいます。
写真集の解説は、十勝神社での仮装行列の様子としています。

出典 十勝の歴史の写真集(資料館の所蔵資料) 
出典 十勝の歴史の写真集(資料館の所蔵資料) 昭栄牧場の熊狩り 地域の人が総出で
棒に吊るしたヒグマを囲んで、帽子の男性や少年20人ほどが並んでいます。前の列の真ん中に白く長いひげの年配の男性がいて、その右に銃を持った青年が座っています。
写真集の解説によると、幕別町の昭栄牧場(のちの新田牧場)で、地域の人が総出でヒグマをしとめたときの記録です。十勝の開拓地では、いつもヒグマが出る不安がありました。

出典 十勝の歴史の写真集(資料館の所蔵資料) 
出典 十勝の歴史の写真集(資料館の所蔵資料) 大日本婦人会の座布団洗い 戦時中の足寄
白い頭巾とかっぽう着の女性たちと子どもが、木のたらいを前に並んでいます。左の綱には、洗った座布団の布が干してあります。
写真集の解説によると、戦争で夫たちが召集されると、地域の暮らしは女性と子どもが守りました。各地で婦人の団体が作られ、大日本婦人会として地域の活動に取り組みました。この写真は、座布団を洗う奉仕の活動です。

出典 十勝の歴史の写真集(資料館の所蔵資料) 本別空襲 炎上する本別の市街
空の上から斜めに写した本別の市街です。線路と道路に沿って家が並び、真ん中から白と黒の煙が上がっています。
1945年(昭和20年)7月15日の朝、アメリカ軍の艦載機が本別の市街地を空襲しました。本別町の歴史の記録では、飛行機は43機、死者40人、全焼と大破倒壊が392戸で、本別は十勝で最大の戦災地になりました。写真集の解説は、飛行機を47機、全焼した家を279戸としています。
写真集の解説は機種を「グラマンP51」と書いていますが、グラマン社の機体とP51は別の機種です。

出典 十勝の歴史の写真集(資料館の所蔵資料) 98ページ 木材を運ぶために架けた弁天橋 トムラウシの森へ
雪の谷に架かる木の橋を、2頭の馬がそれぞれそりを引いて渡ってきます。そりには防寒着の人が乗り、後ろを人と犬が歩いています。
写真集の解説によると、戦争が終わったあと、トムラウシの国有林で森林の開発が始まり、木材を運び出す林道が作られました。この木の橋は、1953年(昭和28年)に屈足からニペソツへ向かう途中の中土場に架けられた弁天橋です。のちに、木材を運ぶ森林軌道(線路)が通るようになりました。

出典 十勝の歴史の写真集(資料館の所蔵資料) 帯広の広小路の舗装が完成 記念の大売り出し
「舗装完成記念大売出し」「広小路商店街」と書いた大きな看板が立つ通りを、オートバイと乗用車が走っています。右の店の軒には、幕と旗が並んでいます。
写真集の解説によると、帯広の市街の道路の舗装が本格的に始まったのは1955年(昭和30年)からです。大通りと西2条を結ぶ南9丁目線(広小路)は1956年(昭和31年)8月に舗装を終え、商店街は完成を記念する大売り出しでにぎわいました。
写真は出典の写真集で見られます。
出典 十勝の歴史の写真集(資料館の所蔵資料)。撮影 荘田喜與志
写真は出典の写真集で見られます。
出典 十勝の歴史の写真集(資料館の所蔵資料)。撮影 荘田喜與志
帯広駅前から西2条を見る 交通安全の4文字
帯広駅前から西2条の通りを見た写真です。通りの上に「交」「通」「安」「全」の字が一字ずつ吊るされ、バスと乗用車とオートバイが走り、歩道には自転車がびっしり並んでいます。
写真集の解説によると、西2条通りの南8丁目では藤丸デパートが営業していました。通りを走るのはバスと自転車が中心で、乗用車はまだ少なく、横断歩道ははっきりしていませんでした。
写真は出典の写真集で見られます。
出典 十勝の歴史の写真集(資料館の所蔵資料)
日勝道路のトンネル工事 標高1,115メートルの入り口
岩をくり抜いたトンネルの入り口と、その前のトロッコとレール、ジープ型の車、ヘルメットの作業員を写した写真です。
写真集の解説によると、日勝道路の最初の踏査は1934年(昭和9年)でした。工事は1955年(昭和30年)に始まり、1965年(昭和40年)に開通しました。写真は標高1,115メートルにあるトンネルの入り口で、全長583メートルのこのトンネルは、当時、北海道で最も高い所に造られたトンネルでした。
開通の日は1965年10月15日です(コトバンク「日勝峠」)。同じ資料はトンネルを標高1,023メートル・延長約580メートルとしていて、写真集の数と食い違います。
写真は出典の写真集で見られます。
出典 十勝の歴史の写真集(資料館の所蔵資料)
姿を変えた帯広駅前 都市改造の工事
工事中の広い駅前広場の向こうに、「サンヨーテレビ」の屋上の看板と「はとや百貨店」の看板を掲げた建物が見える写真です。
写真集の解説によると、帯広駅前の整備は都市改造の事業として1963年(昭和38年)から1969年(昭和44年)まで進められ、駅前の地区は姿を大きく変えました。1966年(昭和41年)には帯広民衆駅が開業し、道東の拠点になりました。帯広市史にも、駅前の一帯を1963年から1969年までに改造したことが書かれています。民衆駅の開業は1966年12月1日です。
写真は出典の写真集で見られます。
出典 十勝の歴史の写真集(資料館の所蔵資料)
足寄神社の花見 町の人の集合写真
葉の出ていない木の下で、大人と子ども30人ほどが座ったり立ったりして並ぶ、花見の集合写真です。手前に一升瓶と皿が置かれています。
写真集の解説によると、1955年(昭和30年)に西足寄町と足寄村が合併したことで、旧足寄村の神社を西足寄神社に合わせてまつり、足寄神社になりました。遷宮の式は1957年(昭和32年)に行われています。
北海道神社庁の記録では、足寄神社は1955年の町村の合併にともなって設立され、社殿の造営は1980年10月16日に完成しました。
写真は出典の写真集で見られます。
出典 十勝の歴史の写真集(資料館の所蔵資料)
十勝の通しの年表 474行
約3万年前から2026年まで、十勝の出来事を時代ごとに並べています。行ごとに出典のリンクがあります。市町村を選ぶか、言葉を入れると絞りこめます。
旧石器から擦文まで9行
- 約3万年前十勝全体十勝で最も古い遺跡は約3万年前。旧石器時代の遺跡は十勝に約100か所ある帯広百年記念館
- 約3万年前幕別町幕別の札内N遺跡・札内K遺跡・日新F遺跡に、人の暮らしの跡が残る幕別町の指定文化財このサイトの年表
- 約1.6万年前帯広市大正3遺跡から北海道最古級の土器が出土北海道デジタルミュージアム
- 約1万4千年前帯広市北海道で土器づくりが始まり、帯広の大正3遺跡に最古の土器が残るこのサイトの年表
- 約9千年前幕別町幕別の途別7遺跡や古舞G遺跡に、竪穴住居の時代の暮らしの跡が残るこのサイトの年表
- 約2400年前十勝全体本州が弥生時代に入るころ、北海道は続縄文時代になるアイヌ民族文化財団『アイヌ民族:歴史と現在』
- 5世紀十勝全体オホーツク文化の人びとが、樺太から道北と道東の沿岸へ南下するアイヌ民族文化財団『アイヌ民族:歴史と現在』
- 7世紀〜12世紀十勝全体十勝の擦文時代の集落が、海岸と十勝川・利別川の流域に集まるこのサイトの年表
- 7世紀十勝全体かまどの付いた四角い竪穴住居が広まり、雑穀の栽培が始まるアイヌ民族文化財団『アイヌ民族:歴史と現在』
アイヌ文化の時代6行
- 13〜18世紀十勝全体十勝の川ぞいの高台に、約70か所のチャシがつくられる展示は約70か所。帯広開発建設部の冊子は72か所と書く帯広開発建設部『時をこえて十勝の川を旅しよう』このサイトの年表
- 13〜18世紀幕別町幕別に、幕別神社・金毘羅・軍岡・稲志別・依田の5つのチャシがつくられる北海道教育委員会「北の遺跡案内」このサイトの年表
- 13世紀十勝全体アイヌ民族の伝統とされる暮らしの形の多くが、このころに見られるようになるアイヌ民族文化財団『アイヌ民族:歴史と現在』
- 13世紀十勝全体安東(安藤)氏が、津軽の十三湊を拠点に北方との交易を行うアイヌ民族文化財団『アイヌ民族:歴史と現在』
- 1457年十勝全体渡島半島東部の首長コシャマインが、道南十二館を攻めるアイヌ民族文化財団『アイヌ民族:歴史と現在』
- 1457年〜1550年ころ十勝全体アイヌ民族と和人が、およそ百年のあいだ何度か戦うアイヌ民族文化財団『アイヌ民族:歴史と現在』
近世 トカチ場所と大津41行
- 17世紀十勝全体トカチ場所が置かれ、松前藩士の蠣崎蔵人広林の知行地になる帯広開発建設部『時をこえて十勝の川を旅しよう』このサイトの年表
- 1604年十勝全体松前氏が徳川家康から黒印状を受け、アイヌ民族との交易を独占するアイヌ民族文化財団『アイヌ民族:歴史と現在』
- 1635年大樹町和人が、歴舟川の下流(いまの大樹町)などで砂金をとっている帯広開発建設部『時をこえて十勝の川を旅しよう』このサイトの年表
- 1642年十勝全体オランダ船カストリクム号が停泊し、十勝アイヌのことを書き残す展示は1642年。帯広開発建設部の冊子は1643年の記録と書く帯広開発建設部『時をこえて十勝の川を旅しよう』このサイトの年表
- 1643年十勝全体オランダ東インド会社のフリースが指揮する船カストリクム号が十勝沖に停泊中、アイヌの男性2人と少年1人の舟に出会い「タカプチ」と教わる帯広開発建設部『時をこえて十勝の川を旅しよう』
- 17世紀中ごろまで浦幌町交易拠点はトカチプト(現浦幌町十勝太)、その後トマリ(現広尾)へ移動十勝の川冊子 p137(第3章アイヌ文化と川)
- 17世紀十勝全体松前藩が、藩主と藩士にアイヌとの交易の権利を割り当てるアイヌ民族文化財団『アイヌ民族:歴史と現在』
- 1669年十勝全体首長シャクシャインの呼びかけで、各地のアイヌ民族が蜂起するアイヌ民族文化財団『アイヌ民族:歴史と現在』帯広開発建設部『時をこえて十勝の川を旅しよう』このサイトの年表
- 18世紀十勝全体トカチ場所で、商人の浜屋久七による経営が始まる帯広開発建設部『時をこえて十勝の川を旅しよう』このサイトの年表
- 18世紀末十勝全体十勝場所請負人に濱屋久七、栖原角兵衛、大阪屋卯助、福嶋屋嘉七・清兵衛、杉浦嘉七らの名十勝治水パンフレット「第4章 十勝開拓と川」p158-169
- 18世紀十勝全体松前藩が、各地の交易と漁業を商人に請け負わせるアイヌ民族文化財団『アイヌ民族:歴史と現在』
- 13〜18世紀十勝全体十勝の川ぞいの高台に、約70か所のチャシがつくられる帯広開発建設部『時をこえて十勝の川を旅しよう』
- 1789年十勝全体十勝川が不漁になり、飢えて亡くなる人が出る帯広開発建設部『時をこえて十勝の川を旅しよう』このサイトの年表
- 1798年〜1807年十勝全体近藤重蔵が北海道の各地を調べ、このころ『十勝川流域絵図』をつくる展示は調査を1798年〜1807年とする。帯広百年記念館の紀要は絵図を1800年〜1804年のものと書く帯広百年記念館紀要 第26号このサイトの年表
- 1798年頃豊頃町大津に番屋が配置される豊頃町
- 1799年(寛政11年)豊頃町大津に駅逓が置かれる豊頃町
- 1799年(寛政11年)十勝全体徳川幕府が初めて駅馬を大津に備える十勝発祥之地 - 発祥の地コレクション
- 1800年十勝全体皆川周太夫が、大津から十勝川をさかのぼって調べる十勝とアイヌの人たち|帯広百年記念館 アイヌ民族文化情報センター「リウカ」帯広百年記念館紀要 第26号このサイトの年表
- 1800年十勝全体伊能忠敬が、函館から十勝・釧路までの海岸を測量する帯広開発建設部『時をこえて十勝の川を旅しよう』このサイトの年表
- 19世紀の初め幕別町皆川周太夫と近藤重蔵の地図に、幕別のコタンの名が書きとめられるこのサイトの年表
- 19世紀の初め幕別町近藤重蔵の絵図に、いまの幕別の4つの地名と11軒の家が描かれるこのサイトの年表
- 1805年豊頃町大津・釧路間の道路が開通豊頃町
- 1825年(文政8年)十勝全体福嶋屋杉浦嘉七がトカチ場所を請負十勝発祥之地 - 発祥の地コレクション
- 1828年十勝全体十勝太に大津稲荷神社前身創建十勝発祥之地 - 発祥の地コレクション
- 1845年十勝全体探検家の松浦武四郎が、初めて十勝の沿岸を通る帯広開発建設部『時をこえて十勝の川を旅しよう』このサイトの年表
- 1855年幕別町調査で、チロットコタンに7戸の家が数えられる幕別町「郷土文化ものがたり Part2」このサイトの年表このサイトの年表
- 1856年十勝全体松浦武四郎が、11年ぶりにふたたび十勝の沿岸を通るこのサイトの年表
- 1858年十勝全体松浦武四郎が十勝の内陸を調べ、アイヌの案内で十勝川を舟で下る帯広開発建設部『時をこえて十勝の川を旅しよう』帯広百年記念館の年表このサイトの年表
- 1858年清水町松浦武四郎がニトマフ(現・人舞)に泊まり、清水アイヌと交歓清水町
- 1858年音更町松浦武四郎が十勝内陸を踏査した際、すでに音更の地に足を踏み入れたと伝わる音更町
- 1858年十勝全体北海道立文書館に「戊午左留日誌 巻の壱」(松浦武四郎・安政5年)北海道立文書館
- 1858年(安政5年)十勝全体十勝78コタン、284戸、1,336人(松浦武四郎調査)時をこえて十勝の川を旅しよう! 第3章アイヌ文化と川(p149 PDF)
- 1858年十勝全体松浦武四郎「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌」が十勝の地名の記録十勝の川冊子 p126-127(松浦武四郎と十勝)
- 1858年(安政5年)3月15日十勝全体十勝川・佐幌川合流点から御影、芽室、音更を経て大津へ松浦武四郎宿泊の地(清水町)
- 1858年幕別町松浦武四郎が幕別を2度訪ね、十勝川ぞいの7か所のコタンを書きとめるこのサイトの年表
- 1858年3月5日~18日十勝全体旭川から十勝への踏査、十勝川を下り大津へ十勝の旅 7(探検家松浦武四郎)
- 1858年(旧暦3月17日)幕別町ヤムワツカヒラの乙名イキリカシが、武四郎の一行に粟の団子をふるまう十勝日誌十勝日誌(活字の版)このサイトの年表
- 1858年(旧暦3月17日)幕別町『十勝日誌』が、十勝川ぞいのジロトウに人家5軒と書く十勝日誌(活字の版)このサイトの年表
- 1860年十勝全体松浦武四郎の『十勝日誌』に、万延元年の序と跋が付く十勝日誌このサイトの年表
- 1863年(文久3年)十勝全体堺千代吉が大津に入る十勝発祥之地 - 発祥の地コレクション
- 幕末中札内村元札内(いまの中札内村)のあたりに、キハダの樹皮のチセがあると記録されるこのサイトの年表
明治 開拓の始まり133行
- 1869年十勝全体開拓使設置。蝦夷地を北海道と改め11国86郡、十勝国は7郡十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1869年広尾町十勝国広尾郡など7郡を置く。広尾町はこの年を開町とする広尾町
- 1869年本別町「ホンヘツ」の名が開拓使の文書に初めて登場本別町
- 1869年十勝全体河東郡設置。郡名は松浦武四郎の提案河東郡(コトバンク)
- 1869年幕別町ヤムワッカ・チロト・イカンベツ・ヘチャロ・マクウンベツの5村が定められる幕別町の年表このサイトの年表
- 1869年浦幌町浦幌の十勝太で、いまチロットに展示されている丸木舟が漁と渡しに使われるこのサイトの年表
- 1869年(明治2年8月15日)十勝全体国郡里制施行、十勝国7郡(広尾・当縁・十勝・中川・河東・河西・上川)設置、51村十勝国 - Wikipedia
- 1869年8月十勝全体十勝・中川・河東・上川の4郡は静岡藩、広尾・当縁・河西の3郡は鹿児島藩の分領支配十勝国 - Wikipedia
- 1869年ころ幕別町白人コタンの指導者になる長谷川由太郎が生まれるこのサイトの年表
- 1871年十勝全体十勝国が開拓使庁に帰属十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1875年十勝全体アイヌと和人が、シカ狩りと漁を管理する十勝組合をつくる帯広開発建設部『時をこえて十勝の川を旅しよう』このサイトの年表
- 1878年十勝全体十勝でとられるシカが、前の年までの年1万頭弱から4万頭に増える帯広開発建設部『時をこえて十勝の川を旅しよう』このサイトの年表
- 1879年・1882年十勝全体大雪が続き、十勝に集まっていたシカが大量に死ぬ帯広開発建設部『時をこえて十勝の川を旅しよう』このサイトの年表
- 1879年十勝全体トノサマバッタが大発生(13〜17年に道内他地域へ波及)十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1879年(明治12年)7月23日十勝全体郡区町村編制法の北海道施行により行政区画としての十勝郡が発足十勝郡(Wikipedia)
- 1880年音更町岩手県人の大川宇八郎がこの地に定住を始める音更町
- 1880年(明治13年)十勝全体大津村に「十勝外四郡戸長役場」、茂寄村に「広尾当縁両郡戸長役場」十勝治水パンフレット「第4章 十勝開拓と川」p158-169十勝発祥之地 - 発祥の地コレクションまちのあゆみ(大樹町公式)幕別町の年表北海道殖民状況報文 十勝国(1901年)このサイトの年表
- 1880年(明治13年)3月十勝全体浦河郡外十郡役所(浦河三石様似幌泉広尾当縁十勝中川河西河東上川郡役所)の管轄十勝郡(Wikipedia)
- 1881年豊頃町幌泉の藤井富兵衛が入植豊頃町
- 1882年十勝全体のちにアイヌの子どもの教育にあたる吉田巌が、福島県に生まれるこのサイトの年表
- 1882年十勝全体開拓使廃止、三県一局となり十勝は札幌県に所属十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1882年大樹町佐藤嘉兵衛が湧洞で和牛の飼育を始める十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1882年十勝全体細谷十太夫が止若に移住十勝治水パンフレット「第4章 十勝開拓と川」p158-169
- 1882年(明治15年)十勝全体静岡県伊豆で晩成社組織晩成社の開拓(北海道庁旧本庁舎 赤れんが庁舎 展示ガイド)
- 1883年十勝全体札幌県が、河口を除く十勝川の流域でサケ漁を禁じる展示は1883年。帯広百年記念館の年表は、1880年に十勝・大津川の上流が禁漁区になったと書く山田伸一 研究成果報告書(2012年)帯広開発建設部『時をこえて十勝の川を旅しよう』このサイトの年表
- 1883年十勝全体サケ漁を禁じられた十勝の内陸のアイヌ民族に、飢えが起こる山田伸一 研究成果報告書(2012年)帯広開発建設部『時をこえて十勝の川を旅しよう』このサイトの年表
- 1883年足寄町根室県が、中足寄(いまの足寄町)でアイヌの人への農業の指導を始める帯広開発建設部『時をこえて十勝の川を旅しよう』このサイトの年表
- 1883年十勝全体晩成社入植を開拓の起点とする開拓の黎明期 - 十勝総合振興局産業振興部調整課
- 1883年十勝全体晩成社13戸27人が帯広(下帯広)に入植依田勉三(Wikipedia 日本語版)帯広市 開拓140年
- 1883年(明治16年)5月帯広市13戸27名がオベリベリ(帯広村)に入植晩成社の開拓(北海道庁旧本庁舎 赤れんが庁舎 展示ガイド)
- 1883年帯広市晩成社が帯広に入り、鈴木銃太郎と渡辺勝がアイヌの人との行き来を日記に残すこのサイトの年表
- 1884年豊頃町長臼にアイヌの人びとの救済事務所が置かれ、農業を教える。5年で取りやめになる豊頃町
- 1884年音更町大川宇八郎が下士幌でプラウ耕作を始める十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1885年十勝全体札幌県が、十勝川と利別川ぞいの12か所に人びとを集め、農業を教える帯広百年記念館の年表山田伸一 研究成果報告書(2012年)このサイトの年表
- 1885年十勝全体札幌県が「旧土人救済授産事業」を開始十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1885年(明治18年)十勝全体伏古・利別などで勧農事業時をこえて十勝の川を旅しよう! 第3章アイヌ文化と川(p149 PDF)
- 1885年幕別町止若村に「救済事務所」が置かれ、白人や咾別の人びとに農業を教える北海道殖民状況報文 十勝国(1901年)このサイトの年表
- 1886(明治19)年大樹町晩成社が大樹町生花苗で牛飼育開始晩成社史跡公園/大樹町公式
- 1886年大樹町依田勉三が大樹町生花苗(オイカマナイ)に当縁牧場を開設【晩成社の跡】アクセス・営業時間・料金情報 - じゃらんnet晩成社の開拓(北海道庁旧本庁舎 赤れんが庁舎 展示ガイド)
- 1886年1月十勝全体三県一局を廃し北海道庁を設置十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1887年浦幌町十勝馬産改良組合が結成される十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1887年頃豊頃町井上義保が旅来から入植したのが始まりとされる豊頃町
- 1888年十勝全体十勝で、移住者を受け入れるための測量が始まるこのサイトの年表
- 1888年十勝全体12か所の農業の指導が、264戸で200町歩あまりを開いたところで終わる山田伸一 研究成果報告書(2012年)帯広開発建設部『時をこえて十勝の川を旅しよう』帯広市史このサイトの年表
- 1889年幕別町止若村で農業を教えていた「救済事務所」が廃止される北海道殖民状況報文 十勝国(1901年)このサイトの年表
- 1889年幕別町永井三治が止若村(いまの明野)に入り、開拓を始める幕別町の年表このサイトの年表
- 1890年帯広市英国人A・S・ランドーが、帯広で丸木舟2そうの網漁を見て書き残すこのサイトの年表
- 1892年幕別町香川県の移民が止若村に、徳島県の移民が咾別村に入る幕別町の年表北海道殖民状況報文 十勝国(1901年)このサイトの年表十勝治水パンフレット「第4章 十勝開拓と川」p158-169
- 1892年帯広市道庁が下帯広村を基点に十勝の原野を植民区画十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1892年豊頃町幌岡に入植。釧路分監が置かれ大津・帯広間の道路開削が進む豊頃町
- 1892年池田町徳島県人の板東農場が蓋派(池田町大森)に移住十勝治水パンフレット「第4章 十勝開拓と川」p158-169
- 1892年(明治25)十勝全体大津—芽室間の道路(通称大津街道)を囚人を使い開削十勝川の歴史 第4章 十勝開拓と川「開拓を進めた川」(p170-185)
- 1892年十勝全体釧路分監受刑者700人来着十勝の旅 28(十勝分監創立)
- 1892年十勝全体十勝国の人口が2,960人で、アイヌの人が約56%を占める北海道殖民状況報文 十勝国(1901年)このサイトの年表
- 1893年幕別町大津と帯広を結ぶ道路ができ、武山市街に止若郵便局が開く幕別町の年表北海道殖民状況報文 十勝国(1901年)このサイトの年表
- 1893年音更町増田立吉が下士幌で水稲栽培に成功十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1893年豊頃町大津・芽室間の道路が完成。郵便取扱所・簡易教育所・巡査駐在所が置かれる豊頃町
- 1893年(明治26)十勝全体凋寒村の三浦等六が川舟運送免許を得て利別太—大津間運行開始十勝川の歴史 第4章 十勝開拓と川「開拓を進めた川」(p170-185)
- 1893年十勝全体囚人動員で大津〜帯広〜芽室の大津街道(約70km)開削開始、約2年で完成帯広の発展と十勝監獄の影響!歴史や監獄があった事で作られたものは? - きたうみ日誌
- 1893年(明治26年)3月十勝全体北海道集治監釧路分監帯広外役所開設帯広刑務所(Wikipedia)
- 1894年幕別町長谷川由太郎が、アイヌの共有財産を管理する組合の代表を務めるこのサイトの年表
- 1894年帯広市道庁植民課出張所が下帯広村に開設十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1894年幕別町岡田新三郎(群馬県新田郡鳥之郷村)が丸山南麓に単身入地、忠類開拓の始まり忠類地域読本(令和5年6月30日発行)忠類発祥の地 - 発祥の地コレクション
- 1894(明治27)年幕別町岡田新三郎が丸山付近を開拓、丸山神社創建ふるさと忠類の年表(忠類地域読本 分割PDF)忠類地域読本 6.2(開拓のはじまり:岡田新三郎の日誌)
- 1894年7月幕別町猿別市街が区画され、土地の貸し付けが始まる幕別町の年表北海道殖民状況報文 十勝国(1901年)このサイトの年表
- 1895年帯広市十勝農事試作場が下帯広村に開設十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1895年帯広市北海道集治監十勝分監(後の十勝監獄)が緑ヶ丘に開庁帯広市 開拓140年帯広刑務所(Wikipedia)
- 1896年十勝全体十勝で区画の測量が行われ、移民を受け入れる体制が整う北海道殖民状況報文 十勝国(1901年)このサイトの年表
- 1896年十勝全体十勝国の植民区地が解除され、移民による開拓が本格化十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1896年十勝全体殖民地の貸付開始で入植団体が急増十勝治水パンフレット「第4章 十勝開拓と川」p158-169
- 1896年十勝全体「アイヌ保護地」が決められ、集まって住むことと農業がうながされる山田伸一 研究成果報告書(保護地と土地)このサイトの年表幕別町の年表このサイトの年表
- 1896年十勝全体十勝の殖民地が移民に開放され貸付開始開拓の黎明期 - 十勝総合振興局産業振興部調整課
- 1896年幕別町白人に、アイヌの子どもの教育を目的とした学校が置かれる展示は1896年から。『北海道殖民状況報文 十勝国』の印字は明治19年(1886年)北海道殖民状況報文 十勝国(1901年)このサイトの年表
- 1896年幕別町5万分の1の地形図に、白人村が「チロト」のふりがな付きで書かれるこのサイトの年表
- 1896年7月20日幕別町吉田菊太郎が、幕別村のチロットに生まれる幕別町「郷土文化ものがたり Part1」このサイトの年表
- 1897年十勝全体河西支庁(後の十勝支庁)を設置十勝総合振興局 十勝農業の年表帯広市史跡標示板 河西支庁跡
- 1897年豊頃町福島県の開拓団「復興社」が牛首別に入植十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1897年幕別町新潟県出身の鈴木久太郎らが下当縁付近を開拓ふるさと忠類の年表(忠類地域読本 分割PDF)
- 1897年(明治30年)11月5日十勝全体河西郡外五郡役所を廃し河西支庁を置く十勝郡(Wikipedia)
- 1897年9月1日幕別町幕別など7村の戸長役場が、大津から分かれて猿別市街に置かれる町の年表は9月1日。『北海道殖民状況報文 十勝国』は6月と書く幕別町の年表北海道殖民状況報文 十勝国(1901年)このサイトの年表
- 1897年11月幕別町白人村に、いまの白人小学校の前身になる私立白人教育所が開く十勝毎日新聞北海道殖民状況報文 十勝国(1901年)このサイトの年表
- 1898年幕別町道庁の調査で、白人原野の保護地に30戸あまりが住み畑を開いていると書かれる北海道殖民状況報文 十勝国(1901年)このサイトの年表
- 1898年十勝全体冷湿害による凶作十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1898年清水町渋沢栄一創設の熊牛農場に越前から26戸99人が入植。上芽室・ペケレベツに讃岐団体6戸清水町
- 1898年幕別町富山県団体が幕別へ入植十勝治水パンフレット「第4章 十勝開拓と川」p158-169十勝川の旅 第4章 十勝開拓と川(p.166 付近・団体移住)
- 1898年幕別町白人村の戸口が146戸・535人になり、アイヌの人は23戸・85人と数えられる北海道殖民状況報文 十勝国(1901年)このサイトの年表
- 1898年幕別町大洪水で、メン川と十勝川の合流点に湧いていた湯が止まる幕別町「アイヌ語に由来する幕別町の地名」このサイトの年表
- 1898年9月十勝全体十勝の各河川が大洪水。降雨107mm、死者21、家屋全壊128戸帯広開発建設部
- 1898年9月十勝全体大雨、管内死者21名、家屋全壊128戸(明治31年 未曽有の大洪水)十勝川洪水年表|帯広開発建設部
- 1899年清水町塩野谷辰三が上羽帯原野の貸付を受け塩野谷牧場を開く(町の酪農発祥地)清水町
- 1899年新得町村山和十郎ほか13戸が開拓の鍬を下ろす新得町
- 1899年(明治32年)十勝全体保護法により農地給与時をこえて十勝の川を旅しよう! 第3章アイヌ文化と川(p149 PDF)
- 1899年5月幕別町凋寒村と蝶多村が分かれ、役場が「幕別4ヶ村戸長役場」になる幕別町の年表このサイトの年表
- 1899年7月幕別町白人の私立の学校が、猿別尋常小学校の白人分校として開校する幕別町の年表このサイトの年表
- 1900年十勝全体河西外六郡農会設立/異常低温で凶作/釧路―帯広間の鉄道が開通十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1900年芽室町戸長役場が置かれる。戸数424、人口1600余芽室町
- 1900年十勝全体途別に晩成社途別農場を開設、稲作依田勉三(Wikipedia 日本語版)
- 1901年清水町ペケレベツ駅逓を清水駅逓と改称(清水の語源)清水町
- 1901年音更町音更ほか2村戸長役場を設置音更町
- 1901年陸別町関又一が斗満に入植陸別町
- 1901年十勝全体北海道庁殖民部が『北海道殖民状況報文 十勝国』を出す北海道殖民状況報文 十勝国(1901年)このサイトの年表
- 1902年本別町本別外五カ村戸長役場を開設。戸数約450戸本別町
- 1902年陸別町72歳の関寛斎が斗満原野に入植陸別町
- 1903年幕別町のちに白人コタンの組合を支える内海勇太郎が、幕別へ移り始める幕別町「郷土文化ものがたり Part1」このサイトの年表
- 1903年清水町人舞村外一ヵ村戸長役場が開庁(開町)清水町
- 1903年4月幕別町6歳の吉田菊太郎が、村の白人尋常小学校に入学する幕別町「郷土文化ものがたり Part1」このサイトの年表
- 1904年幕別町内海勇太郎の指導で、白人コタンに古民共済組合ができる幕別町「郷土文化ものがたり Part1」このサイトの年表
- 1905年幕別町「白人土人開墾組合」ができ、組合員の負債の解消にあたる幕別町「郷土文化ものがたり Part1」このサイトの年表
- 1905年帯広市帯広―釧路間の鉄道が開通し、帯広が農産物集散地へ帯広市 開拓140年
- 1905年幕別町下当縁から忠類まで道路開通ふるさと忠類の年表(忠類地域読本 分割PDF)
- 1905年10月幕別町鉄道の利別・帯広間が開通し、止若停車場が開業する幕別町の年表十勝総合振興局「幕別町史」の要約このサイトの年表
- 1906年十勝全体十勝国産牛馬組合が発足/異常低温で凶作十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1906年音更町2級村制を施行音更町豊頃町
- 1906年4月幕別町二級町村制で5村が合わさり、幕別村になる幕別町の年表このサイトの年表
- 1906年8月幕別町幕別村の役場が、猿別市街から駅のある止若市街へ移る幕別町の年表幕別町「歴史の散歩道」このサイトの年表
- 1907年十勝全体道庁地方農事試験場十勝分場の高丘地試験地を幸震村に設置/帝国製麻帯広工場が操業/旭川―帯広間の鉄道が開通十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1907年清水町十勝線が開通し清水駅・佐念頃駅を開設清水町
- 1907年帯広市鉄道の落合と帯広の間が開通し、旭川と帯広がつながる。狩勝信号場が置かれる狩勝峠(Wikipedia)
- 1907年3月11日上士幌町安村治高丸が駒場から上士幌に入植士幌町
- 1908年十勝全体十勝の人口が約6万人になり、アイヌの人の割合が約3%になる展示は全人口59,763人。『十勝国勢一斑』の明治41年末は和人59,813人、合計61,557人。アイヌの人の数は一致する十勝国勢一斑(1910年)このサイトの年表
- 1908年清水町渋沢栄一が熊牛農場を初めて訪問し3泊清水町
- 1909年十勝全体農産商組合が結成され穀物検査も開始十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1909年清水町佐念頃(後の御影)神社を創建清水町
- 1909年陸別町淕別第一小学校を開設(足寄教育所付属)陸別町
- 1910年十勝全体道庁の第一期北海道拓殖計画(〜大正15年)が実施される十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1910年清水町下佐幌に日本育児院付属の福祉施設「北星園」を開設(大正12年帯広へ移転)清水町
- 1910年(明治43年)十勝全体網走線として池田-陸別間開業鉄路の歴史(rikubetsu-railway)
- 1911年十勝全体第一回十勝競馬を開催十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1911年帯広市皇太子(後の大正天皇)が帯広に行啓帯広市 開拓140年
- 1911年幕別町幕別で、当時の名で「旧土人開墾組合」という組合ができる十勝とアイヌの人たち|帯広百年記念館 アイヌ民族文化情報センター「リウカ」このサイトの年表
- 1911年3月幕別町吉田菊太郎が幕別高等小学校を卒業し、家業の農業に就く幕別町「郷土文化ものがたり Part1」このサイトの年表
- 1912年清水町渋沢栄一寄与の大勝神社(熊牛)を創建清水町
- 1912年(大正元年)10月5日十勝全体野付牛-網走間開通、網走本線と改称鉄路の歴史(rikubetsu-railway)
大正 豆と鉄道と洪水52行
- 1912年10月15日陸別町関寛斎が斗満の地で没す陸別町
- 1913年十勝全体第一回十勝畜産共進会を開催十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1913年上士幌町ユウンナイに長沢温泉が開業士幌町
- 1913年幕別町新田帯革製造所の製渋工場が止若に設立される幕別町
- 1913年幕別町糠内〜忠類間の道路開通ふるさと忠類の年表(忠類地域読本 分割PDF)
- 1914年十勝全体第一次世界大戦勃発十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1914年上士幌町上士幌駅逓を開設/5月11日、上士幌教授場が開校士幌町
- 1914年清水町清水市街の大火で53戸が全焼清水町
- 1915年清水町屈足村から分離し人舞村と称す清水町
- 1915年本別町本別村に二級町村制を施行。人口7,662人本別町
- 1916年十勝全体農産物価格が高騰(大正8年まで)、豆成金・澱粉成金が続出十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1916年十勝全体十勝バスの前身にあたる十勝自動車が設立される(十勝バスの会社の歴史による)十勝バス
- 1917年本別町豊作と価格高騰で開村以来の好景気本別町
- 1918年十勝全体教員の武隈徳三郎が、『アイヌ物語』を出す展示は伏古の出身、財団の副読本は音更村の生まれと書くアイヌ民族文化財団『アイヌ民族:歴史と現在』国立国会図書館デジタルコレクション『アイヌ物語』このサイトの年表
- 1918年上士幌町音更山道の開削を開始士幌町
- 1918年5月幕別町合資会社新田ベニヤ製造所を設立幕別町
- 1919年幕別町白人コタンの指導者、長谷川由太郎が亡くなるこのサイトの年表
- 1919年十勝全体北海道製糖(現・日本甜菜製糖)設立/作付面積10万町歩突破/十勝亜麻設立十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1919年清水町佐幌川に水力発電所を開設し、清水・佐念頃市街に給電清水町
- 1919年陸別町足寄外3村戸長役場から分離し淕別村を設置陸別町
- 1919年3月上士幌町島隆美が糠平温泉を発見士幌町
- 1919年4月幕別町幕別村が、北海道の二級町村から一級町村になる幕別町の年表このサイトの年表
- 1920年十勝全体展示が先人のひとりに挙げる高橋真が生まれるこのサイトの年表
- 1920年帯広市帯広町外13ヵ村組合十勝農業学校を創立(現・帯広農業高校)/戦後恐慌で農産物価格が暴落十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1920/1921年十勝全体北海道製糖帯広工場専用線開業(資料で年が異なる)十勝鉄道日本甜菜製糖 歴史(ニッテン公式)
- 1920年帯広市北海道製糖株式会社専用鉄道として開通(帯広市の記述)帯広市指定文化財 十勝鉄道蒸気機関車4号及び客車コハ23号
- 1920年十勝全体てん菜輸送目的で専用鉄道開通帯広市指定文化財 十勝鉄道蒸気機関車4号及び客車コハ23号
- 1920年代ころ帯広市帯広の伏古に建つチセが、畑ごしに写真に撮られるこのサイトの年表
- 1921年十勝全体千代田土功組合が取水施設を設置十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1921年清水町芽室村から分割し御影村開村/清水市街に電話が開通清水町
- 1921年本別町西足寄村を分村し役場を開庁本別町
- 1921年4月上士幌町音更村から川上村を分村。772戸士幌町
- 1922年幕別町のちに保存会の初代会長になる安東軍次郎が、白人コタンに生まれるこのサイトの年表
- 1922年清水町日本甜菜製糖清水工場が操業開始/失火で清水小学校が全焼清水町
- 1922年8月十勝全体台風による洪水。熊牛259.9mm、死者9、家屋流失240戸帯広開発建設部十勝川洪水年表|帯広開発建設部
- 1922年8月十勝全体大洪水を契機に本格的治水事業開始十勝川の歴史 第4章「洪水と新水路」(p186-195)
- 1923年帯広市新田牧場が種雄牛馬をアメリカから輸入/極東練乳が帯広に進出十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1923年清水町人舞村に1級町村制を施行/御影村市街に電話/ドイツ人コッホが下佐幌に入地清水町
- 1923年本別町本別に一級町村制を施行。東北海道一の規模で本別小学校を新築本別町
- 1923年陸別町淕別に2級村制を実施し淕別村となる陸別町
- 1923年(大正12年)帯広市帯広町伏古相互組合設立、その後幕別を含む各町村にも組合設立十勝とアイヌの人たち|帯広百年記念館 アイヌ民族文化情報センター「リウカ」
- 1923年(大正12)十勝全体十勝川の本格的治水事業着手十勝川の歴史 第4章「洪水と新水路」(p186-195)十勝川流域の概要|帯広開発建設部十勝川治水100年(帯広開発建設部)
- 1923年池田町池田町市街裏堤防と新水路掘削、鉄道橋上流堤防工事に着手十勝川流域の概要|帯広開発建設部
- 1923年4月十勝全体十勝鉄道株式会社設立十勝鉄道
- 1924年帯広市日最高気温37.8℃を記録(道内観測史上最高)十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1924年十勝全体十勝監獄が釧路刑務所に統合され、帯広支所になる帯広刑務所(Wikipedia)
- 1924年2月8日十勝全体十勝鉄道が北海道製糖線を譲受、地方鉄道として開業十勝鉄道
- 1924年6月幕別町幕別互助組合ができ、吉田菊太郎が評議員になる幕別町「郷土文化ものがたり Part1」このサイトの年表
- 1926年十勝全体十勝岳が大噴火十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1926年士幌町士幌村となる士幌町
- 1926年広尾町茂寄村を広尾村に改める広尾町
- 1926年更別村大正村(現・帯広市)に属することになる更別村
昭和の戦前と戦中47行
- 1927年5月帯広市帯広で十勝アイヌ旭明社ができ、吉田菊太郎も加わる幕別町「郷土文化ものがたり Part1」帯広百年記念館の年表このサイトの年表
- 1927年9月25日清水町人舞村が村名を清水村と改める。駅の名と村の名が違い不便だったため清水町
- 1928年十勝全体北海道農事試験場十勝支部幸震経営試験場を設置十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1928年十勝全体北海道拓殖鉄道 新得—鹿追間開業北海道拓殖バス
- 1929年十勝全体十勝アイヌ旭明社が講演会を開き、30人あまりが集合写真に収まるこのサイトの年表
- 1929年十勝全体水田1万町歩を突破/世界恐慌が発生十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1929年幕別町幕別へ移って行政との間に立った内海勇太郎が亡くなるこのサイトの年表
- 1929年7月8日幕別町吉田菊太郎が白人古潭矯風会をつくり、会長になる展示の印刷は「古譚」、展示の写真の札と町の資料は「古潭」と書く幕別町「郷土文化ものがたり Part1」このサイトの年表
- 1929年11月2日十勝全体国鉄広尾線の帯広と中札内の間が開業したとされる。広尾町の沿革では、広尾まで通ったのは1932年haramap.jp
- 1929年〜1933年幕別町洪水を防ぐため、途別川が新しい水路に切り替えられる幕別町「歴史の散歩道」このサイトの年表
- 1930年代十勝全体十勝のアイヌが、共有財産の使い方について話し合うこのサイトの年表
- 1930年十勝全体豊作で農産物価格が暴落(豊作貧乏)/管内の馬頭数が約52,000頭に十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1930年帯広市藤丸呉服店が「藤丸百貨店」と改称し、西2条8丁目に4階建ての新店舗(十勝初のエレベーター)マトカ(藤丸のあゆみ)
- 1930年1月幕別町吉田菊太郎が、当時の名で「旧土人保導委員」という役に就くこのサイトの年表
- 1930年幕別町吉田菊太郎が白人古潭納税組合をつくり、白人古潭矯風会館を建てる幕別町「郷土文化ものがたり Part1」このサイトの年表
- 1930年11月幕別町吉田菊太郎が、『蝦夷の光』の創刊号を出す幕別町「郷土文化ものがたり Part1」国立国会図書館サーチこのサイトの年表
- 1931年十勝全体冷湿害による大凶作十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1931年1月幕別町白人古潭矯風会が総会を開き、100人ほどが建物の前で写真に収まるこのサイトの年表
- 1931年十勝全体札幌で全道アイヌ青年大会が開かれ、十勝からの参加者も登壇するアイヌ民族文化財団『アイヌ民族:歴史と現在』幕別町「郷土文化ものがたり Part1」このサイトの年表
- 1932年帯広市安東ウメ子が、帯広の伏古コタンに生まれる幕別町「企画展の開催について」このサイトの年表
- 1932年大樹町河西支庁を十勝支庁に改称/十勝拓殖実習場を大樹町尾田に開場十勝総合振興局 十勝農業の年表十勝郡(Wikipedia)
- 1932年(昭和7)幕別町移住者が奈良県の産土神を勧請し祠を建立(創祀)忠類神社 - 北海道神社庁のホームページ
- 1932年十勝全体二年続きの凶作、管内各地で救済土木工事年表 - 十勝総合振興局産業振興部調整課
- 1932年(昭和7年)十勝全体帯広治水事務所が千代田堰堤建設着手十勝川千代田堰堤 解説シート(土木学会 選奨土木遺産)
- 1932年4月幕別町吉田菊太郎が、幕別村会議員に初めて当選する幕別町「郷土文化ものがたり Part1」このサイトの年表
- 1933年ころ幕別町畑の中の道と家々が写る「チロット古潭の一部」の写真が撮られるこのサイトの年表
- 1933年本別町町制を施行し本別町となる本別町音更町陸別町
- 1934年十勝全体冷害による大凶作十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1934年広尾町黄金道路が8年の歳月を経て開通広尾町
- 1935年十勝全体冷湿害で凶作/千代田頭首工が竣工十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1935年11月10日幕別町サルベツのチャシが、「金比羅山」の名で幕別村の「史蹟名勝」に登録される十勝総合振興局「幕別町史」の要約このサイトの年表
- 1936年1月1日清水町町制を施行し清水町となる清水町
- 1936年9月幕別町昭和天皇の来道にあわせ、白人コタンに岡部侍従が遣わされる幕別町「郷土文化ものがたり Part1」このサイトの年表
- 1937年幕別町吉田菊太郎ら十勝の人びとが、第70回帝国議会を傍聴する幕別町「郷土文化ものがたり Part1」このサイトの年表
- 1939年十勝全体十勝農業保険組合を設立十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1940年豊頃町村費と寄附金により旧十勝川に豊頃橋が完成豊頃町
- 1940年十勝全体旧陸軍飛行隊創隊、帯広第一飛行場旧日本陸軍 帯広第一飛行場
- 1940年4月幕別町吉田菊太郎も通った白人尋常小学校に、高等科が置かれる幕別町の年表このサイトの年表
- 1940年9月幕別町侍従が遣わされた白人コタンに、「御使御差遣記念碑」が建つ幕別町「郷土文化ものがたり Part1」幕別町「歴史の散歩道」このサイトの年表
- 1941年帯広市帯広高等獣医学校が開校(1949年に国立帯広畜産大学へ昇格)十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1943年十勝全体北海道農業会および同十勝支部を設置/幸震に甜菜試験地を設置十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1944年幕別町幕別村が全村の字名を改め、白人が「千住」になる幕別町の年表幕別町「アイヌ語に由来する幕別町の地名」このサイトの年表
- 1944年清水町御影村農業会が乳牛の人工授精実験に着手十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1945年十勝全体終戦と大凶作で極度の物資・食糧不足、物価高騰十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1945年7月14・15日帯広市帯広空襲。米軍の飛行機が帯広に爆弾を落とし、機関銃で撃つ帯広市
- 1945年7月15日本別町本別の市街が米軍の艦載機43機の空襲を受け、十勝で最大の戦災地になる。死者40人、全焼と大破倒壊392戸(本別町)本別町
- 1945年7月大樹町空襲で石坂・旭浜・大樹市街が被災。死者2大樹町
戦後の昭和116行
- 1946年本別町旧軍馬補充部十勝支部跡に道立北海道農業講習所を設立十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1946年広尾町町制を施行し広尾町となる広尾町
- 1946年2月幕別町社団法人北海道アイヌ協会ができ、吉田菊太郎が副理事長になる展示と町の施設紹介は副理事長。町の略年譜は副会長と書く北海道アイヌ協会幕別町「蝦夷文化考古館」このサイトの年表幕別町「郷土文化ものがたり Part1」このサイトの年表
- 1946年9月15日幕別町開基50年の年に町制が施行され、幕別村が幕別町になる幕別町の年表このサイトの年表
- 1947年新得町農業協同組合法制定/十勝馬鈴薯原原種農場設置/種畜場が新得へ移転十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1947年4月幕別町吉田菊太郎が、町になったばかりの幕別で農業会長になる幕別町「郷土文化ものがたり Part1」このサイトの年表
- 1947年4月大樹町改正地方自治法により高橋新市が村長に当選就任大樹町
- 1947年9月更別村大正村から分村し村名を更別村とする更別村
- 1947年9月十勝全体カスリン台風、上札内249.5mm、大津村耕地800ha冠水十勝川洪水年表|帯広開発建設部
- 1948年幕別町吉田菊太郎の主導で、北海道アイヌ協会の幕別支部ができる展示は1948年の支部の設立を書く。町の地域計画は、幕別アイヌ協会を1996年4月設立と書くこのサイトの年表
- 1948年十勝全体農業改良助長法制定、食糧増産技術員を配置十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1948年大樹町農協を設立大樹町
- 1948年十勝全体釧路国支庁から足寄郡全域を移管十勝支庁(Wikipedia)
- 1948年4月陸別町足寄郡から十勝支庁に編入陸別町
- 1948年4月更別村幕別町の一部(現・勢雄区・協和区)を編入更別村
- 1949年十勝全体トラクター心土工開始/豆の戦後初輸出/土地改良法制定十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1949年陸別町淕別村(リクンベツ)を陸別(リクベツ)と改称陸別町
- 1949年幕別町忠類村開村時 534戸・3,130人忠類地域読本(令和5年6月30日発行)
- 1949年7月大樹町漁協を設立大樹町
- 1949年8月大樹町大樹村から忠類村を分村大樹町忠類地域読本(令和5年6月30日発行)
- 1950年清水町清水町農協が根粒菌資材の製造販売を開始十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1950年3月大樹町村立大樹高等学校を認可大樹町
- 1951年陸別町斗満地区を編入(戸数252・人口1,863)陸別町
- 1951年2月16日十勝全体警察予備隊帯広部隊が開設。5月1日 第4連隊・第62連隊第1大隊を新編帯広駐屯地(Wikipedia)
- 1951年4月幕別町村会議員を務めた吉田菊太郎が、幕別町議会議員に当選する幕別町「蝦夷文化考古館」このサイトの年表
- 1952年帯広市十勝中央家畜人工授精所を帯広市に開設十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1952年(昭和27年)3月4日十勝全体十勝沖地震M8.2、道内死者30・重傷90・軽傷426、被災者15万人超1952年十勝沖地震
- 1952年十勝全体1952年十勝沖地震の被害は、死者と行方不明が33人、全壊した住まいが815棟日高・十勝地域の地震活動の特徴(地震調査研究推進本部)
- 1952年3月十勝全体十勝沖地震、被災戸数9,507戸十勝川洪水年表|帯広開発建設部
- 1952年3月4日幕別町十勝沖地震M8.2、幕別で震度6、泥炭地で被害多発1952年十勝沖地震
- 1953年帯広市帯広市市営競馬が始まる/「大正金時」が普及/冷湿害凶作十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1953年豊頃町中央区に公営住宅25戸を建設豊頃町
- 1954年十勝全体小豆が「赤いダイヤ」と称される(1俵1万円)十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1954年(昭和29年)7月1日十勝全体陸上自衛隊設置に伴い帯広駐屯地が開設帯広駐屯地(Wikipedia)
- 1954年8月16日十勝全体第5管区総監部が札幌駐屯地から移駐。1961年8月26日 第5特科連隊第5大隊が東千歳から移駐帯広駐屯地(Wikipedia)
- 1955年ころ帯広市帯広で、「十勝アイヌウポポ愛好会」ができる帯広百年記念館「リウカ」このサイトの年表このサイトの年表
- 1955年4月1日足寄町中川郡西足寄町と足寄郡足寄村が合併し足寄町となる足寄町
- 1958年5月幕別町吉田菊太郎が、考古館の資金をつくるために『アイヌ文化史』を出す幕別町「郷土文化ものがたり Part1」幕別町「蝦夷文化考古館」北海道立文書館このサイトの年表
- 昭和33年9月幕別町豊頃・幕別で養殖サケ流出十勝川洪水年表|帯広開発建設部
- 1959年十勝全体十勝鉄道が旅客の営業をやめ、帯広と工場前の3.5キロだけの貨物の鉄道になる十勝鉄道
- 1959年3月幕別町吉田菊太郎らが、蝦夷文化考古館の建設の趣意書をまとめる幕別町「郷土文化ものがたり Part1」このサイトの年表
- 1959年幕別町蝦夷文化考古館が、かつて白人コタンのあった土地にできる幕別町「郷土文化ものがたり Part1」幕別町の年表このサイトの年表
- 1960年芽室町道立十勝農業試験場が芽室町へ移転/農林省北海道農業試験場畑作部を新設十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1960年12月十勝全体北海道拓殖バス設立、1961年1月バス事業譲渡北海道拓殖バス
- 1961年十勝全体農業基本法制定/ビートのペーパーポット移植栽培が実証成功十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1961年十勝全体大豆輸入自由化で十勝の大豆作付が激減十勝の農業の歴史 ~経済的な観点での考察~(PDF)
- 1961年5月5日幕別町吉田菊太郎が、「蝦夷文化考古館におもう」を書くこのサイトの年表
- 1962年十勝全体ホクレン清水製糖工場・大日本製糖本別工場が操業開始十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1962年士幌町町制を施行し士幌町となる士幌町
- 1962年十勝全体十勝川の洪水で、被害を受けた家屋3,793戸、水があふれた面積40,768ヘクタール日本の川 - 北海道 - 十勝川
- 1962年8月十勝全体台風、死者2名・家屋全壊10戸十勝川洪水年表|帯広開発建設部
- 1963年十勝全体アイヌの子どもの教育と十勝の郷土史の調査にあたった吉田巌が亡くなるこのサイトの年表
- 1963年十勝全体第一回十勝農作物増収記録会を開催十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1963〜1969年帯広市市の都市改造事業で駅前一帯を改造(昭和38〜44年)帯広市
- 1963年11月幕別町開業から止若駅と呼ばれてきた駅が、幕別駅に名を改める幕別町の年表このサイトの年表
- 1963年11月幕別町蝦夷文化考古館のとなりに、町の千住生活館ができる町の基本計画は11月の落成。町の略年譜は12月に落成式と書く幕別町の基本計画(案)幕別町「郷土文化ものがたり Part1」このサイトの年表
- 1964年十勝全体愛好会が、「帯広カムイトウウポポ保存会」になる帯広百年記念館の年表帯広市アイヌ施策推進地域計画このサイトの年表伝承活動を行っている団体(帯広百年記念館 アイヌ民族文化情報センター リウカ)
- 1964年十勝全体冷湿害で凶作(被害額120億円)十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1964年広尾町広尾港を十勝港に改称広尾町
- 1964年(昭和39年)十勝全体旧帯広空港(現十勝飛行場)で民間機運航開始帯広空港(Wikipedia)帯広駐屯地(Wikipedia)
- 1964年11月幕別町吉田菊太郎が、北海道新聞文化賞(社会部門)を受ける展示と北海道新聞社は「北海道新聞文化賞」。町の略年譜は「北海道新聞社会文化賞」と書く北海道新聞社このサイトの年表
- 1965年1月8日幕別町蝦夷文化考古館を建てた吉田菊太郎が、68歳で亡くなる幕別町「郷土文化ものがたり Part1」このサイトの年表
- 1965年10月15日十勝全体日勝道路が全線開通、初代日勝トンネルも開通コトバンク
- 1966年十勝全体農免農道の初採択/冷湿害で凶作(119億円)十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1966年1月幕別町遺族の申し出を受け、幕別町議会が考古館の受け入れを決める幕別町「アイヌ文化交流センター」幕別町「郷土文化ものがたり Part1」このサイトの年表
- 1966年5月幕別町止若地区の字名が、本町・錦町・寿町などに改められる幕別町の年表このサイトの年表
- 1966年12月1日帯広市帯広民衆駅(帯広ステーションビル)が開業帯広市商店街振興組合連合会
- 1967年幕別町国道を直す工事の現場から、20体のアイヌの人の遺骨が見つかる幕別町「歴史の散歩道」このサイトの年表
- 1967年十勝全体北海道協同乳業を設立(後のよつ葉乳業)十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1968年十勝全体道営畑総・営農用水・明渠排水事業の初採択十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1968年広尾町開町100年記念式典を挙行広尾町陸別町
- 1969年幕別町幕別町の稲志別墓地に、白人コタン慰霊碑が建つ幕別町「歴史の散歩道」このサイトの年表
- 1969年十勝全体農業改良普及事業を広域化(十勝は6普及所に統合)十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1969年(昭和44)7月幕別町忠類晩成でナウマン象化石発見忠類ナウマン象記念館|幕別町公式忠類ナウマン象記念館
- 1969年幕別町全骨格の70〜80%にあたる計47個の化石を掘り出し、日本で初めて全身骨格の復元に成功ナウマン象のまち|幕別町観光物産協会
- 1969年7月幕別町農道工事中に化石発見忠類ナウマン象記念館|幕別町公式
- 1970年十勝全体米の生産調整開始/てん菜100万t・乳牛10万頭達成/日本甜菜製糖芽室製糖所が操業十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1970年広尾町十勝港が国の重要港湾に指定広尾町
- 1971年十勝全体冷湿害で凶作(122億円)/初の広域農道事業を採択十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1972年十勝全体馬鈴しょ葉巻病が多発十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1973年帯広市帯広の沼チョマトーで、チョマトー祭が始まる帯広百年記念館「リウカ」このサイトの年表
- 1973年十勝全体畜産基地建設事業を実施十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1974年本別町オイルショック/道立農業大学校が本別町に開校十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1974年陸別町陸別高校が閉校、町立国保診療所を開設陸別町
- 1975年幕別町白人の名を持つ白人中学校が、札内中学校に統合される幕別町「歴史の散歩道」このサイトの年表
- 1975年十勝全体牧草の雪腐病が大発生/台風6号で千代田頭首工が決壊十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1976年中札内村十勝農協連レンダリングプラントが操業開始十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1976年6月幕別町札内市街の字名が改められ、札内青葉町などができる幕別町の年表幕別町「歴史の散歩道」このサイトの年表
- 1977年幕別町明野の幕別墓地に、ヤムワッカウタリ慰霊碑が建つ展示は1977年。碑の裏の文は1976年とする資料もある幕別町「歴史の散歩道」このサイトの年表
- 1977年十勝全体十勝畜産公社設立/千代田頭首工の復旧完了十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1977年十勝全体日本甜菜製糖の帯広工場が閉鎖され、十勝鉄道の残りの区間も廃止される十勝鉄道
- 1978年陸別町開基60年・町政施行25周年記念事業陸別町
- 1979年十勝全体小麦の作付面積が大幅に増加十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1979年10月幕別町依田に、町の歴史と民具を伝える幕別町ふるさと館ができる幕別町アイヌ施策推進地域計画このサイトの年表
- 1980年十勝全体冷害で凶作(134億円)十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1980年広尾町シーサイドパーク広尾がオープン広尾町
- 1981年十勝全体広域農道十勝中央大橋が着工/北海道生乳検査協会設立十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1981年本別町開基80年記念式典、町木「かしわ」・町花「エゾムラサキツツジ」を制定本別町
- 1981年(昭和56年)2月28日十勝全体旧空港供用廃止、3月1日: 新空港を第2種B空港として供用開始、滑走路2000m帯広空港(Wikipedia)
- 1981年3月1日十勝全体旧空港跡地施設を十勝飛行場と改称帯広空港(Wikipedia)
- 1981年8月十勝全体台風12号+前線、上札内337mm(既往最大)、住家被害339戸、札内川・音更川で直轄堤防決壊十勝川洪水年表|帯広開発建設部
- 1982年十勝全体管内農業粗生産額2,000億円を達成十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1983年十勝全体冷湿害で凶作(579億円)十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1983年豊頃町豊頃大橋が完成豊頃町
- 1984年幕別町幕別で、「マクウンベツアイヌ文化保存会」ができる帯広百年記念館「リウカ」このサイトの年表このサイトの年表
- 1984年広尾町ノルウェー・オスロ市からサンタランドの認定を受ける広尾町
- 1984年2月十勝全体帯広カムイトウウポポ保存会のアイヌ古式舞踊が国の重要無形民俗文化財に指定伝承活動を行っている団体(帯広百年記念館 アイヌ民族文化情報センター リウカ)
- 1985年十勝全体「十勝農業の発展方策」を策定/チホクコムギが小麦作付の57%十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1986年十勝全体てん菜の糖分取引開始/第1回十勝ステーツフェア開催十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1986年7月5日陸別町カナダ・ラコーム町と姉妹都市提携陸別町
- 1987年2月2日十勝全体国鉄広尾線が廃止Wikipediaresponse.jp
- 1987年9月8日陸別町陸別町のユクエピラチャシ跡が、国の史跡に指定される文化庁 文化遺産オンラインこのサイトの年表
- 1988年十勝全体小麦の作付4万ha突破/十勝中央大橋が開通十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1988年(昭和63)8月幕別町忠類ナウマン象記念館開館忠類ナウマン象記念館|幕別町公式ナウマン象のまち|幕別町観光物産協会
- 1989年十勝全体十勝港に5万トンの貯蔵サイロが完成十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1989年本別町国鉄池北線が廃止され、ふるさと銀河線が開業本別町陸別町
平成と令和70行
- 1990年十勝全体アイヌの子どもの教育を支える「とかちエテケカンパの会」ができるこのサイトの年表
- 1990年十勝全体管内16の農業共済組合が合併十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1990年本別町義経の館が完成本別町
- 1990年7月幕別町蝦夷文化考古館の民具が調べられ、295点が確かめられる幕別町「郷土文化ものがたり Part1」このサイトの年表
- 1991年新得町農道離着陸場(新得町)が完成十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1991年本別町本別駅(ステラプラザ)完成、開町90年記念式典本別町
- 1992年十勝全体生乳80万tを突破十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1992年3月幕別町町教育委員会が、『吉田菊太郎資料目録』の1冊目を出す幕別町「郷土文化ものがたり Part1」国立国会図書館サーチこのサイトの年表
- 1992年12月十勝全体十勝河口橋開通、それまで旅来渡船(ロープを人力で伝う小型ボート)で連絡国道336号
- 1993年十勝全体ガット・ウルグアイラウンド農業合意十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1993年本別町釧路沖地震で被害甚大本別町
- 1993年2月16日幕別町蝦夷文化考古館が盗難に遭い、飾り刀や杯など65点を失う幕別町「郷土文化ものがたり Part1」このサイトの年表
- 1994年十勝全体冷湿害(平成の米騒動)/レンダリングプラントが操業十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1995年幕別町幕別支部長と保存会の初代会長を務めた安東軍次郎が亡くなるこのサイトの年表
- 1995年本別町非核平和の町を宣言本別町
- 1996年十勝全体パワーアップ事業を実施十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1997年十勝全体十勝枝肉市場を開設/北海道農業・農村振興条例を制定十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1997年広尾町天馬街道が27年の歳月を経て開通広尾町
- 1998年音更町アグリアリーナ(音更町)が完成十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1998年本別町長野冬季五輪スピードスケートに本別町から2選手が出場本別町
- 1999年十勝全体食料・農業・農村基本法を制定十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 1999年陸別町銀河の森コテージ村がオープン陸別町
- 1999年十勝全体JR北海道バスの帯広営業所がなくなり、十勝バスが路線を引き継ぐ十勝バス
- 2000年幕別町安東ウメ子が、北海道文化財保護功労賞を受ける展示は2000年。2003年の受賞とする資料もあるこのサイトの年表
- 2000年十勝全体管内で口蹄疫が発生十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 2000年本別町開町100年記念事業/口蹄疫「疑似患畜」を確認本別町
- 2000年陸別町オーロラタウン93りくべつが道の駅に登録陸別町
- 2000年4月幕別町低気圧、糠平雨量163mm、床上床下浸水24戸、幕別町で住民避難勧告十勝川洪水年表|帯広開発建設部
- 2001年幕別町安東ウメ子の歌を収めたアルバム『イフンケ』が出る制作者の公式プロフィール(英語)このサイトの年表
- 2001年十勝全体道内でBSEが発生十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 2001年(平成13年)十勝全体愛称「とかち帯広空港」決定帯広空港(Wikipedia)
- 2002年2月幕別町蝦夷文化考古館の収蔵品が、幕別町の指定文化財になる幕別町の指定文化財このサイトの年表
- 2003年幕別町安東ウメ子のアルバム『ウポポ サンケ』が出る制作者の公式プロフィール(英語)再発盤の解説(英語)このサイトの年表
- 2003年8月21日十勝全体幕別町・更別村・忠類村任意合併協議会設置幕別町・更別村・忠類村任意合併協議会 ダイジェスト
- 2003年9月広尾町十勝沖地震(震度5強)、十勝港で約2.7mの津波を観測広尾町
- 2003年9月26日幕別町十勝沖地震M8.0、幕別町で震度6弱平成15年(2003年)十勝沖地震
- 2004年幕別町ムックㇽとウポポの名手、安東ウメ子が亡くなる幕別町「企画展の開催について」このサイトの年表
- 2004年8月1日幕別町幕別で20年以上とだえていたイチャルパが復活するこのサイトの年表
- 2005年十勝全体「北海道農業農村整備推進方針」を策定十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 2005年(平成17年)十勝全体一度休止していた保存会が活動を再開伝承活動を行っている団体(帯広百年記念館 アイヌ民族文化情報センター リウカ)
- 2005年5月幕別町保存会が、マクンベツアイヌ文化伝承保存会の名で活動を再開する幕別町アイヌ施策推進地域計画このサイトの年表
- 2006年幕別町安東ウメ子の歌を収めたDVD『けうとぅむ』が出る幕別町「蝦夷文化考古館」このサイトの年表
- 2006年十勝全体ふるさと銀河線(旧国鉄池北線)が廃止される陸別町
- 2006年幕別町合併でカントリーサイン撤去、後にナウマン象記念館で展示懐かしの「忠類村」カントリーサイン展示 幕別・ナウマン象記念館
- 2006年1月十勝全体帯広百年記念館に、アイヌ民族文化情報センター「リウカ」が開く帯広市アイヌ施策推進地域計画このサイトの年表
- 2006年2月6日幕別町広尾郡忠類村を編入合併technocco.jpあの時の記憶(166)「忠類村が幕別町に合併」
- 2006年2月6日幕別町幕別町と忠類村が合併し、新しい幕別町になる幕別町の年表このサイトの年表
- 2007年5月幕別町安東ウメ子が寄贈した民具68点が、ふるさと館の常設展示に並ぶ幕別町「郷土文化ものがたり Part2」このサイトの年表
- 2008年陸別町「ふるさと銀河線りくべつ鉄道」が運行開始陸別町
- 2008年3月幕別町札内N遺跡の出土品が、幕別町の指定文化財になる幕別町の指定文化財このサイトの年表
- 2010年(平成22年)4月1日十勝全体十勝総合振興局に改組十勝支庁(Wikipedia)十勝総合振興局 十勝農業の年表
- 2010年4月大樹町銀河連邦に加盟し「タイキ共和国」誕生大樹町
- 2011年3月11日広尾町東日本大震災。十勝港で2.8m超の津波、被害10億円超広尾町
- 2012年9月大樹町i-Ballの大気圏再突入データを受信(帰還観測は世界初)大樹町
- 2014年5月幕別町幕別支部が、「幕別アイヌ協会」に名を改めるこのサイトの年表
- 2015年9月13日幕別町明野の幕別墓地で、幕別の2か所の共同墓地の慰霊祭が行われるこのサイトの年表
- 2016年10月時点十勝全体帯広広尾自動車道が忠類大樹ICまで供用国道336号
- 2018年広尾町広尾町150年記念式典および記念事業広尾町
- 2018年大樹町北海道胆振東部地震で震度4、町内全域が約2日間停電大樹町
- 2018年十勝全体「松浦武四郎の十勝越えを歩く会2018」が安政5年ルートの全踏査を達成安政5年、松浦武四郎の「十勝越え」…全ルート踏査達成!!(NDLサーチ書誌)
- 2022年2月4日幕別町マクンベツアイヌ文化伝承保存会が、アイヌ文化奨励賞を受ける広報まくべつ 2022年3月号このサイトの年表
- 2022年3月10日幕別町幕別町アイヌ施策推進地域計画が、国に認定される幕別町アイヌ施策推進地域計画このサイトの年表
- 2022年8月幕別町蝦夷文化考古館が、北海道の公式スタンプラリーの十勝の立ち寄り先になるアニメ公式の告知北海道Likersこのサイトの年表
- 2023年3月31日幕別町蝦夷文化考古館が、拠点空間の整備のために閉館する幕別町「蝦夷文化考古館」幕別町の年表このサイトの年表
- 2025年広尾町十勝港が道内初の産直港湾に認定広尾町
- 2026年7月幕別町新しい施設の伝承室で、炉棚の設置と火入れの式が行われる幕別町「令和8年度チロット事業報告」このサイトの年表
- 2026年09月帯広市クナウパブリッシング(帯広市)の高原淳社長が十勝の郷土史資料をまとめたウェブアプリ「十勝デジタルアーカイブ」を公開、とかち史談会が協力十勝の郷土史料をデジタルアーカイブに クナウパブリッシング とかち史談会が協力|十勝毎日新聞
- 2026年9月30日幕別町完成の式が開かれ、伝承室で新築の祈りアシリチセノミが行われる十勝毎日新聞北海道新聞このサイトの年表
- 2026年10月1日幕別町幕別町アイヌ文化交流センター「チロット」が、千住に開館する幕別町のお知らせ幕別町「アイヌ文化交流センター」このサイトの年表
- 2026年10月1日幕別町企画展「アイヌ文化伝承者 安東ウメ子」が、展示館で始まる幕別町「企画展の開催について」このサイトの年表
資料によって異なる記述
| 出来事 | ある資料 | 別の資料 |
|---|---|---|
| カストリクム号が十勝沖に来た年 | 1642年(このサイトの年表。展示による) | 1643年(帯広開発建設部『時をこえて十勝の川を旅しよう』) |
| 長臼に救済事務所が置かれた年 | 1884年(豊頃町の「同17年」) | |
| 人舞村が清水村に名を改めた年 | 1927年9月25日(清水町) | |
| 本別空襲の機数 | 47機(写真集) | 43機(本別町)。ほかに40機余・25機とする資料もある |
| 本別空襲の機種 | 「グラマンP51」(写真集) | 米海軍の艦載機(本別町)。グラマン社の機体とP-51は別の機種 |
| 新田ベニヤの工場の始まり | 1910年に製渋工場(写真集) | 1913年に新田帯革製造所の製渋工場、1918年5月に新田ベニヤ製造所(幕別町の資料編) |
| 日勝峠のトンネルの標高と長さ | 標高1,115メートル・全長583メートル(写真集) | 標高1,023メートル・延長約580メートル(コトバンク) |
| 足寄神社の始まり | 1955年の合併で足寄神社に、1957年に遷宮(写真集) | 1955年に設立、1980年10月16日に社殿の造営が完成(北海道神社庁) |
| 広尾線の開業 | 1929年11月2日(帯広と中札内の間。まとめサイト) | 広尾まで通ったのは1932年(広尾町) |
| 広尾線の廃止 | 1987年2月2日(Wikipedia) | 昭和61年=1986年(広尾町の沿革) |
| 佐藤嘉兵衛の湧洞の入地 | 1880年に入地し、はじめは駅逓を営む(豊頃町) | 1882年に大樹町湧洞で和牛を飼い始める(十勝総合振興局) |
| 忠類村と幕別町の合併の日 | 2006年2月5日(議会史) | 2006年2月6日(幕別町の多くの資料) |
十勝の歴史とあわせて読む画面
出典
- 十勝総合振興局 十勝農業の年表(1869〜2012年)
- 帯広開発建設部『時をこえて十勝の川を旅しよう』
- 帯広開発建設部 十勝川の洪水の歴史
- 帯広百年記念館 十勝の先史時代
- 帯広市 開拓140年・市制施行90年記念サイト
- 帯広市史(帯広市が公開)
- 本別町 歴史(本別空襲)
- 豊頃町 地区の歴史(大津・旅来・湧洞)
- 清水町 歴史
- 幕別町 町勢要覧資料編 2026
- 北海道『アイヌ語地名リスト』(2007年) 19市町村の名の由来。このサイトの地名の地図に、ページ番号つきで整理しています
- 十勝の歴史の写真集(資料館の所蔵資料) 古写真26点と、その解説の事実
- 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス(米軍撮影の空中写真)
- 国土地理院 地理院タイル「全国最新写真(シームレス)」(現在の写真)
- 国立国会図書館デジタルコレクション(十勝日誌・帯広案内・十勝國全圖・帯廣市街之圖・昭和11年の写真帖・日本八景)
- 各市町村の公式の沿革 19市町村の欄に、それぞれのリンクがあります
- 年表の行ごとの出典 通しの年表の各行の下に、出典のリンクがあります