絵で読む、チロットという土地
展示と公的な資料で確かめられたことを、年の順に並べました。人の姿は描いていません。
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1鳥がたくさんいる沼
十勝川の南に、鳥がたくさん集まる沼がありました。白鳥が来る沼だったと伝えられています。
アイヌ語で、チㇼ・オッ・トー。鳥がたくさんいる沼、という意味だとされています。チリ・ロㇰ・トー(鳥が座る沼)と言う人もいます。
この沼の名前が、土地の名前になりました。チロット。のちに、漢字で「白人」と書かれるようになります。
cir ot to鳥・たくさんいる・沼

21800年ごろ 川ぞいの家と畑
19世紀の初め、幕府の役人の近藤重蔵たちが十勝川を調べ、絵図を残しました。
絵図には、いまの幕別のあたりの地名と、家の数が書かれています。サツナイブトウに2軒、マカンベツに1軒、ホロナイブトウに3軒、ヤムワツカヒラに5軒です。
どの家にも畑がありました。川の中の島には柳が茂り、雪は3尺(約90cm)ほど積もる、とも書かれています。

31858年 鮭の卵を包んだ団子
安政5年(1858年)3月17日。松浦武四郎は丸木舟で十勝川を下り、ヤムワツカヒラに着きました。いまの幕別町役場のあたりです。
そこには、イキリカシという乙名(村の長)がいました。家の西は平らで土がよく肥え、粟の畑がありました。
イキリカシは、一行みんなに団子を作ってふるまいました。粟の粉とオオウバユリの粉をつき、中に鮭の卵を包んで、ゆでたものです。武四郎は、その味をほめて書き残しています。
このころ幕別には、十勝川ぞいに7か所のコタンがあり、27軒に100人以上が暮らしていました。
ヤムワツカヒラ武四郎の書き方。ヤㇺ(冷たい)・ワㇰカ(水)・ピラ(崖)。のちの止若

41883年 魚のいない川
明治になると、北海道の土地は国のものとされました。1876年には、狩りに使う仕掛け弓と毒矢が禁じられました。
1883年、札幌県は、河口を除く十勝川の流域で、サケをとることを禁じました。サケを資源として守るため、という理由でした。
先に現地を調べた役人は、人びとが飢えると考え、食べる分の漁は認めるよう意見を出していました。県はそれを採らず、見張りを送りました。
十勝の内陸のアイヌの人びとに、飢えが起きました。

51885年から1896年 碁盤の目
1885年、止若に事務所が置かれ、まわりのコタンの人びとに農業が教えられました。道具と種が渡され、粟やきび、じゃがいもを作りました。
1892年に原野が測られ、土地は碁盤の目に区切られました。1896年に貸し付けが始まると、本州から移り住む人が急に増えました。
アイヌの人びとには「保護地」が決められました。白人の保護地には、白人と幕別の30戸あまりが集まって住み、畑を開きました。こうして、白人コタンができました。
十勝の全体では、人口に占めるアイヌの人の割合は、1892年の約56%から、1908年には約3%になりました。
白人村(チロト)1896年の地図の書き方。漢字の村の名前に、アイヌ語の読みが付いています

61896年から1937年 白人コタンの人びと
1896年、白人コタンに吉田菊太郎さんが生まれました。
菊太郎さんは、帯広の十勝アイヌ旭明社に加わり、1929年に白人古潭矯風会を作りました。禁酒、住まいの改善、納税の指導、そして助け合いを進める会でした。
同じころ、途別川の流れを切り替える大きな工事がありました(1929年から1933年)。いまチロットの北を流れる途別川は、このときにできた流れです。
1936年には、天皇の使いがコタンを訪ねました。1937年、菊太郎さんたちは東京へ行き、法律の改正を話し合う帝国議会を傍聴しました。

71905年から1963年 名前が動く
1905年、鉄道が通り、止若(やむわっか)停車場ができました。翌年、村の役場が、川の港だった猿別から止若へ移りました。村の名前は「幕別」のまま、中心だけが止若に移ったのです。
もとの「幕別」は、もっと西にありました。マㇰ・ウン・ペッ。本流から分かれて後ろを回り、また合わさる川の名前です。
1944年、村じゅうの字の名前が改められ、白人は「千住」になりました。先住民族のアイヌの人びとが暮らしてきた場所であることを踏まえた名前です。
1963年11月、止若駅は幕別駅になりました。冷たい水の崖という意味の名前は、駅の名前から消えました。
mak un pet後ろ・にある・川。幕別のもとの名前

81959年から1966年 書き残した願い
菊太郎さんは、先祖の道具が失われていくのを見て、集めて残す館を作ろうと考えました。本を書いて売り歩き、資金を集めました。
1959年、白人コタンのあった土地に、蝦夷文化考古館ができました。
1961年5月5日、菊太郎さんは一枚の文を書きました。自分が亡くなったあとは、館の維持と管理を幕別町にお願いしたい、という文です。
1965年、菊太郎さんは亡くなりました。翌年の1月、町議会は館の受け入れを決めました。
絵は、この話のために作った切り紙ふうのさし絵です
出典: チロットの展示(2026年10月3日に確認)、松浦武四郎『十勝日誌』(国立国会図書館デジタルコレクション)、北海道庁殖民部『北海道殖民状況報文 十勝国』(1901年)、山田伸一「勧農を中心とする三県一局期のアイヌ政策に関する研究」報告書、幕別町勢要覧 資料編(年表)

