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切り紙の絵。夜明けの沼に白鳥とカモが浮かび、空を鳥が飛んでいる

読み物 土地

白人と書いて、チロット

鳥がたくさんいる沼の名前が、土地の名前になりました。その土地にコタンができ、名前が千住に変わり、いまチロットという館が建っています。幕別という名前が西から動いてきた話も、ここにつながります。

紙芝居を始める

絵は、この話のために作った切り紙ふうのさし絵です

先に、3つのこと

チロット(白人)とは
いまの幕別町千住のあたりの、古い地名です。アイヌ語のチㇼ・オッ・トー(鳥がたくさんいる沼)に由来するとされています。1896年の地図には「白人村」と書かれ、「チロト」と読みが付いています。
千住になったのは
1944年(昭和19年)です。幕別村が村じゅうの字の名前を改めたとき、白人は千住になりました。
幕別と止若
いまの幕別町役場と幕別駅のあたりは、止若(やむわっか)という土地でした。幕別駅は、1905年から1963年まで止若駅でした。もとの「幕別」は、もっと西にあった川の名前です。

出典: チロットの展示(2026年10月3日に確認)、幕別町「幕別町のアイヌ語地名」、幕別町勢要覧 資料編(年表)

絵で読む、チロットという土地

展示と公的な資料で確かめられたことを、年の順に並べました。人の姿は描いていません。

画面いっぱいに開きます。矢印キーか、画面の右を押すと次へ進みます。

  1. 切り紙の絵。夜明けの沼に白鳥とカモが浮かび、空を鳥が飛んでいる

    1鳥がたくさんいる沼

    十勝川の南に、鳥がたくさん集まる沼がありました。白鳥が来る沼だったと伝えられています。

    アイヌ語で、チㇼ・オッ・トー。鳥がたくさんいる沼、という意味だとされています。チリ・ロㇰ・トー(鳥が座る沼)と言う人もいます。

    この沼の名前が、土地の名前になりました。チロット。のちに、漢字で「白人」と書かれるようになります。

    cir ot to鳥・たくさんいる・沼

  2. 切り紙の絵。枝分かれした大きな川のほとりに、草ぶきの家が3つと小さな畑、丸木舟がある

    21800年ごろ 川ぞいの家と畑

    19世紀の初め、幕府の役人の近藤重蔵たちが十勝川を調べ、絵図を残しました。

    絵図には、いまの幕別のあたりの地名と、家の数が書かれています。サツナイブトウに2軒、マカンベツに1軒、ホロナイブトウに3軒、ヤムワツカヒラに5軒です。

    どの家にも畑がありました。川の中の島には柳が茂り、雪は3尺(約90cm)ほど積もる、とも書かれています。

  3. 切り紙の絵。木の椀に白い団子が入り、割った団子から赤い鮭の卵が見える。そばに火と箸

    31858年 鮭の卵を包んだ団子

    安政5年(1858年)3月17日。松浦武四郎は丸木舟で十勝川を下り、ヤムワツカヒラに着きました。いまの幕別町役場のあたりです。

    そこには、イキリカシという乙名(村の長)がいました。家の西は平らで土がよく肥え、粟の畑がありました。

    イキリカシは、一行みんなに団子を作ってふるまいました。粟の粉とオオウバユリの粉をつき、中に鮭の卵を包んで、ゆでたものです。武四郎は、その味をほめて書き残しています。

    このころ幕別には、十勝川ぞいに7か所のコタンがあり、27軒に100人以上が暮らしていました。

    ヤムワツカヒラ武四郎の書き方。ヤㇺ(冷たい)・ワㇰカ(水)・ピラ(崖)。のちの止若

  4. 切り紙の絵。魚のいない灰色の川のほとりに、何もかかっていない干し棚と、岸に置かれた舟がある

    41883年 魚のいない川

    明治になると、北海道の土地は国のものとされました。1876年には、狩りに使う仕掛け弓と毒矢が禁じられました。

    1883年、札幌県は、河口を除く十勝川の流域で、サケをとることを禁じました。サケを資源として守るため、という理由でした。

    先に現地を調べた役人は、人びとが飢えると考え、食べる分の漁は認めるよう意見を出していました。県はそれを採らず、見張りを送りました。

    十勝の内陸のアイヌの人びとに、飢えが起きました。

  5. 切り紙の絵。曲がって流れる川の上に、まっすぐな線で碁盤の目が引かれている

    51885年から1896年 碁盤の目

    1885年、止若に事務所が置かれ、まわりのコタンの人びとに農業が教えられました。道具と種が渡され、粟やきび、じゃがいもを作りました。

    1892年に原野が測られ、土地は碁盤の目に区切られました。1896年に貸し付けが始まると、本州から移り住む人が急に増えました。

    アイヌの人びとには「保護地」が決められました。白人の保護地には、白人と幕別の30戸あまりが集まって住み、畑を開きました。こうして、白人コタンができました。

    十勝の全体では、人口に占めるアイヌの人の割合は、1892年の約56%から、1908年には約3%になりました。

    白人村(チロト)1896年の地図の書き方。漢字の村の名前に、アイヌ語の読みが付いています

  6. 切り紙の絵。刈り取った畑の中を曲がって続く道と電柱、道ぞいの木の家

    61896年から1937年 白人コタンの人びと

    1896年、白人コタンに吉田菊太郎さんが生まれました。

    菊太郎さんは、帯広の十勝アイヌ旭明社に加わり、1929年に白人古潭矯風会を作りました。禁酒、住まいの改善、納税の指導、そして助け合いを進める会でした。

    同じころ、途別川の流れを切り替える大きな工事がありました(1929年から1933年)。いまチロットの北を流れる途別川は、このときにできた流れです。

    1936年には、天皇の使いがコタンを訪ねました。1937年、菊太郎さんたちは東京へ行き、法律の改正を話し合う帝国議会を傍聴しました。

  7. 切り紙の絵。小さな木の駅と、何も書かれていない駅名の板、着いたばかりの蒸気機関車

    71905年から1963年 名前が動く

    1905年、鉄道が通り、止若(やむわっか)停車場ができました。翌年、村の役場が、川の港だった猿別から止若へ移りました。村の名前は「幕別」のまま、中心だけが止若に移ったのです。

    もとの「幕別」は、もっと西にありました。マㇰ・ウン・ペッ。本流から分かれて後ろを回り、また合わさる川の名前です。

    1944年、村じゅうの字の名前が改められ、白人は「千住」になりました。先住民族のアイヌの人びとが暮らしてきた場所であることを踏まえた名前です。

    1963年11月、止若駅は幕別駅になりました。冷たい水の崖という意味の名前は、駅の名前から消えました。

    mak un pet後ろ・にある・川。幕別のもとの名前

  8. 切り紙の絵。壁にかけた、文字のような筆のあとが並ぶ紙と、棚の漆の器、ござの上の鹿の角

    81959年から1966年 書き残した願い

    菊太郎さんは、先祖の道具が失われていくのを見て、集めて残す館を作ろうと考えました。本を書いて売り歩き、資金を集めました。

    1959年、白人コタンのあった土地に、蝦夷文化考古館ができました。

    1961年5月5日、菊太郎さんは一枚の文を書きました。自分が亡くなったあとは、館の維持と管理を幕別町にお願いしたい、という文です。

    1965年、菊太郎さんは亡くなりました。翌年の1月、町議会は館の受け入れを決めました。

絵は、この話のために作った切り紙ふうのさし絵です

出典: チロットの展示(2026年10月3日に確認)、松浦武四郎『十勝日誌』(国立国会図書館デジタルコレクション)、北海道庁殖民部『北海道殖民状況報文 十勝国』(1901年)、山田伸一「勧農を中心とする三県一局期のアイヌ政策に関する研究」報告書、幕別町勢要覧 資料編(年表)

チロットの建物の正面と入口
2026年10月3日に撮影

2026年、同じ土地に館が建ちました

2026年10月1日、蝦夷文化考古館の隣に、幕別町アイヌ文化交流センター「チロット」が開館しました。館の名前は、この土地の古い名前です。

館内の歴史の年表は、旧石器時代から始まり、「2026年 幕別町アイヌ文化拠点空間が完成する」という行で終わります。展示は、考古館で保存されてきた資料が、いまの館の資料の直接のもとになったと説明しています。

菊太郎さんが文を書き残してから、65年がたっています。

出典: チロットの展示(2026年10月3日に確認)。写真は2026年10月3日に撮りました。

チロットへの行き方吉田菊太郎さん

幕別の地名の由来(白人・千住・幕別・止若・猿別)

地名古い書き方由来と意味
白人(ちろっと)1896年の地図に「白人村」、読みは「チロト」。松浦武四郎は「ジロトウ」と書いたチㇼ(鳥)・オッ(たくさんいる)・トー(沼)。または、チリ・ロㇰ(座る)・トー。どちらとも決まっていません
千住(せんじゅう)1944年に、白人から改められた先住民族のアイヌの人びとが暮らしてきた場所であることを踏まえた名前
幕別(まくべつ)1896年の地図に「幕別村」、読みは「マクンペッ」。武四郎は「マクンベツ」マㇰ(後ろ)・ウン(ある、入っている)・ペッ(川)。本流から分かれて回り、また合わさる流れ。もとの場所は、いまの役場よりかなり西
止若(やむわっか)1896年の地図に「止若村」、その上に「ヤムワクカピラ」。武四郎は「ヤムワツカヒラ」ヤㇺ(冷たい)・ワㇰカ(水)・ピラ(崖)。いまの幕別町役場と幕別駅のあたり
猿別(さるべつ)川1896年の地図に「サラペッ」サㇽ(葭原)・ペッ(川)。上流の更別も同じ由来とされます

出典: チロットの展示(2026年10月3日に確認)。展示は、地名の説明を山田秀三の著作によるとしています。幕別町「幕別町のアイヌ語地名」

白人村という昔の村は、いまの千住のほか、相川などにも広がっていました。コタンがあったのが、いまの千住です。

よくある問い

幕別駅は、昔は何という駅でしたか
止若(やむわっか)駅です。1905年(明治38年)10月に止若停車場として開業し、1963年(昭和38年)11月に幕別駅になりました。
なぜ、役場のあたりが「幕別」になったのですか
1906年に5つの村が合わさって幕別村になり、その年に役場が止若へ移りました。鉄道の駅ができた止若が村の中心になり、のちに駅と字の名前も幕別に改められました。字の名前としての止若は、1966年に本町などに変わりました。
チロットは、何語ですか
アイヌ語です。鳥がたくさんいる沼、という意味だとされています。
白人コタンは、どこにありましたか
いまの幕別町千住です。蝦夷文化考古館とチロットが建っている土地です。1898年(明治31年)の調査では、白人の保護地に30戸あまりが住んでいました。

出典: 幕別町勢要覧 資料編(年表)、『北海道殖民状況報文 十勝国』、チロットの展示(2026年10月3日に確認)

チロット(白人)の年表

  1. 1800年ごろ近藤重蔵の絵図に、幕別の4つの地名と11軒の家が書かれる
  2. 1858年松浦武四郎がヤムワツカヒラで、乙名のイキリカシに団子をふるまわれる
  3. 1883年札幌県が十勝川の流域でサケ漁を禁じる。内陸で飢えが起きる
  4. 1885年止若に事務所が置かれ、農業の指導が始まる
  5. 1896年原野の貸し付けが始まり、移り住む人が急に増える。白人に保護地。吉田菊太郎さんが生まれる
  6. 1905年鉄道が通り、止若停車場ができる
  7. 1906年5つの村が合わさって幕別村に。役場が止若へ移る
  8. 1929年白人古潭矯風会ができる。途別川の切り替えの工事が始まる
  9. 1944年白人が千住になる
  10. 1946年幕別村が幕別町になる
  11. 1959年蝦夷文化考古館ができる
  12. 1963年止若駅が幕別駅になる
  13. 1966年町議会が考古館の受け入れを決める
  14. 2026年チロットが開館する

出典: チロットの展示(2026年10月3日に確認)、幕別町勢要覧 資料編(年表)

幕別町の牧草地と丘の景色
2026年10月3日に撮影

いまの千住で、たどれるもの

幕別町の地図「歴史の散歩道」には、この話に出てくる場所が載っています。

蝦夷文化考古館の敷地には、1936年に天皇の使いが来たことを記念する碑があります。千住の白鳥の飛来地のそばには、途別川の切り替えを記念する碑があります。町は、この工事に、自由のない労働者と囚人が使われたと書いています。

千住14号橋のそばには、白人コタン慰霊碑があります。幕別の人びとは、ここと、明野の幕別墓地のヤムワッカウタリ慰霊碑の2か所で、毎年、先祖の供養をしています。供養は、2004年に20年ぶりに復活したものです。

出典: 幕別町「幕別町 歴史の散歩道」、チロットの展示(2026年10月3日に確認)。碑の場所は地図で確かめたもので、現地ではまだ確かめていません。

この画面の文と絵について

文は、チロットの館内の展示と、公的な資料で確かめられたことをもとに、このサイトの運営者が書きました。展示の文は写していません。資料によって年や数が違うところは、展示の書き方に合わせ、出典を並べています。

十勝の人口の割合(約56%と約3%)は、展示の表の数字です。1892年の総数は『北海道殖民状況報文』と合いますが、1908年の総数は、ほかの資料と少し違います。割合は、どちらの数でもほぼ同じです。

絵は、この話のために作った切り紙ふうのさし絵です。土地と物だけを描き、人の姿、アイヌの文様、衣服は描いていません。家や舟や駅の形は、絵としての表現で、実物を写したものではありません。

当時の制度の名前(保護地など)は、資料の言葉として、かぎ括弧を付けて使っています。

つづけて読む

出典

  1. 幕別町アイヌ文化交流センター(チロット)の館内の展示 歴史年表、「明治期の記録」「19世紀の初めごろ」、吉田菊太郎略年譜、「蝦夷文化考古館におもう」。2026年10月3日に確認
  2. 松浦武四郎『十勝日誌』(万延元年の序) 国立国会図書館デジタルコレクション。ヤムワツカヒラとイキリカシ、団子の作り方
  3. 北海道庁殖民部『北海道殖民状況報文 十勝国』(1901年) 国立国会図書館デジタルコレクション。1898年の調査。白人の保護地、止若の事務所、人口
  4. 山田伸一「勧農を中心とする三県一局期のアイヌ政策に関する研究」研究成果報告書(2012年) 1883年のサケ漁の禁止と飢えの経緯
  5. 幕別町勢要覧 資料編(年表) 止若停車場の開業、役場の移転、字名の改称、町制、駅の改称
  6. 幕別町「幕別町のアイヌ語地名」 チロット、千住、幕別川
  7. 幕別町「幕別町 歴史の散歩道」 記念碑と慰霊碑の場所、途別川の切り替え